愛のカタチ -01-


 待ち合わせの喫茶店の前に着いて腕時計を覗いた時、萱島の尻ポケットでメールを受信した携帯が振動した。開けて中身を見ると、待ち合わせの相手からのメールだった。

少し遅くなるので、中で待っていてください。

 硬い、几帳面な文面に、守谷らしいと萱島は笑みを浮かべた。
 11時にこの喫茶店の前で、という約束ではあったが、確かに7月に入って強まる一方の日差しの中、どれだけ遅くなるか分からない相手を待つのは少々辛い。岬からのメールに従って、萱島は喫茶店のドアを開けた。
 テーブルについてアイスコーヒーを注文し、汗を拭ったハンカチでぱたぱたと顔を仰ぐ。その首筋からふわりとブルガリブラックが香って、注文を取りに来たバイトのウェイトレスは見惚れるように頬を染めた。
 通りに面した席から、萱島は頬杖をついて外を眺める。表情には出ないけれど、岬が早く来ないかと、待ち遠しくてならない。
 何と言っても、今日は岬との初デートなのだ。
 …とはいえ、『デート』だと思っているのは萱島一人かもしれない。今日ここでこうして待ち合わせをすることになった経緯というのが、成り行きとしか言いようのないものだったからだ。
 数日前、いつものように相談室へ出向いた萱島は、偶然ある映画の試写会のチケットが2枚手に入ったという話をした。そんなに映画に興味のない萱島は、手には入ったものの見に行く気もなく、それゆえそのチケットで岬を誘うことも考え付いてはいなかった。
 しかしその話に、岬の方が食らいついてきた。
「えっ、そのチケット1枚余ってないですか!?」
 どうやらその映画、岬が見たくてたまらなかった作品らしい。
「萱島先生、もう誰かと行く予定とかあります?」
 上目遣いに甘えられ、この目で頼まれては降参だと萱島は苦笑した。
「ほしいならやるよ」
 そう言った萱島は本当に映画に行く気は全くなく、持っているチケットは2枚とも与えて岬が誰かと楽しんでくればいいと思っていた。しかし、ほんとですかっ、と笑顔を輝かせた岬はその後、萱島の全く想定していたなかった発言をした。
「じゃ、その日何時にどこで待ち合わせます?」
 そう訊かれ、萱島は一瞬目を瞠った。
 チケットを1枚もらえると思った岬の方から、一緒に行こうと誘ってきたのだ。
「……えーと、11時頃に、映画館の前の喫茶店」
 少し当惑しながら、そのつもりではなかったことを気取られないように返すと、岬は本当に嬉しそうに、わかりましたと取り出した手帳に予定を書き入れた。
(…こいつ、分かってんのかな)
 ひどく浮かれた様子の岬を眺めながら、思わず萱島は呆れてしまった。
 それまで何度デートに誘っても飲みに誘っても首を縦に振らなかった岬が、映画一つに目の色を変えて、周りが見えなくなってあまつさえ自分から外出に誘っているのだ。
 まあ、そんな単純なところも萱島には好ましく映ってしまうのだけれど。
 その時の岬のはしゃぎようを思い出して笑みを浮かべたところで、テーブルの上に置いていた携帯がまた不意に震えた。

もーすぐ着きます。

 さっきよりも砕けた文面に微笑み、オーダーしたアイスコーヒーを飲んでいると、カランとドアが軽い音を立てた。姿を見せた、少し肩を上下した岬。
「守谷、こっち」
 見当違いな方向をきょろきょろと見回している岬に、萱島が手を上げて声をかける。それを振り返った岬の姿に、しばし萱島は見惚れた。
 やや華奢な岬の体のラインを際立たせるような細身のブルーグレーのコットンシャツに、九分丈のデニムに市松模様のスリッポン。パッと見では社会人には見えない、学生時代の出で立ちそのままであろう岬の私服に愛しさが募る。とんでもなく可愛い。
 一方の岬も、平日の萱島が白衣の下に着ている服よりもさらにラフな、オフホワイトのざっくりとしたサマーセーターに深いカーキのパンツを合わせた、そこはかとないセンスの良さと男らしさを感じさせる姿にしばし見入る。ただしこちらは、その萱島を素直にカッコいいと思うだけでなく、それに対して子どもっぽさが抜けない自分に劣等感を覚えていた。
「すみません、遅くなって」
「いや、開始は12時からだから大丈夫だけど。出掛けに何かあったのか?」
「あー…ちょっと予想外なものが届いてて」
 向かいの席に座りながら、岬はポケットから、携帯二つと写真入りの葉書を取り出してテーブルに置いた。
「予想外?」
 問い返しながら萱島はその葉書に手を伸ばした。
「どーでもいいけどお前、その携帯二つ持ってんの、いつ見ても浮気用にしか見えねぇよな」
「もー、うるさいなぁ。だって必要だと思ったんですもん」
 松野の一件以来、岬は携帯電話を二つ持つようになっていた。一つはプライベート、一つは仕事用にと教頭が都合してくれた。
 本当に助けが必要な時というのは、時も場所も選ばない。パソコンのメールチェックを怠ったことを気に病む岬は、自分と松野が常に連絡を取れる関係になかったことをひどく反省していた。
 しかし校内の不特定多数の人間にプライベートの携帯番号等を教えることにはやはり抵抗があり、教頭に相談したところ、仕事に必要なものであるならばと、学校の経費で一つ携帯を持たせてくれることになった。なるべく私用電話はしないでくださいね、と遠慮がちに苦笑する教頭の顔が浮かぶ。
「――何だこりゃ。結婚報告?」
 葉書を手にした萱島が、怪訝そうに眉を寄せた。
 裏面には、胸から上を写した男女の写真。並んでいる二人は幸せそうで、けれどちょっとした年齢差が見受けられた。
「右の、僕の元カノなんです」
 少しためらいがちに、岬は笑った。
「別れたのが2月で、まだ半年も経ってないのに、もう結婚して幸せにやってるんだなーって思ったら、ちょっと力抜けちゃって。ぼーっとしてたら電車一駅乗り過ごしちゃったんです。すみませんでした」
 浮かべる笑顔に無理が見えて、萱島はくしゃ、と岬の頭を混ぜた。
「…辛いなら無理して笑うな、バカ」
「はは…」
 笑いの収めどころが分からず、岬は力なくお冷に口をつけた。
 写真の右側でふわりと笑う色白で華奢な女性は、とても可憐で、萱島の目にも愛らしく映った。けれどその笑みにもどこか憂いが滲んで、それはふと、松野の件でひどく落ち込んでいた時の岬と重なった。
 その女性を庇い守るようにしている、左側の男。女性が岬と同い年くらいなら、それより一回りは年上に見える。
「…こんな年上の男とスピード結婚なんかしたら、親は黙ってねぇだろうなぁ」
「ああ、それなら大丈夫です」
 急に乾いた声を出した岬を、葉書から上げた目で仰いだ。
「その子も親いませんから」
 その子 も 。
 何気ない風で言った岬の言葉を、萱島は思いっきり胸に引っ掛けた。
 萱島から返された葉書を、岬はひどく冷めた瞳でポケットに収める。そんな岬は見ていられずに、萱島はわざと明るい声を出した。
「…おっしゃ、じゃ映画の前に腹ごしらえしとくか。俺がおごってやろう」
「あ、やった」
 幼い笑みを浮かべた岬に安堵して、萱島は岬と連れ立って店を出た。
 昼食を摂るための店へ並んで歩いている途中、岬は、社会人らしき男性と腕を組んで歩く緑翠高校の制服を着た女子生徒の姿を見かけた。一瞬、まさか妙な恋愛をしてはいないだろうかと気にかかったが、元恋人の年上の男性と並んだ幸せそうな笑顔を思い出し、本人が幸せならば恋愛は自由かと思い直す。
 その後、映画の上映時間が近づくにつれて岬の関心はそちらへ向かい、その時に見た光景も意識から抜けてしまっていた。