夕方5時半を過ぎて、佳織は西岡の職場近くのファーストフード店にいた。
そわそわと時計を何度も覗き込む。メールで呼び出して、5時半には仕事が終わるという返事が来た。とにかく早く会いたい。
(西岡さんは守谷先生が言うような人じゃない。絶対違うもん)
そう信じてはいるが、岬の言ったことは確かにどこかにある胸のささくれに引っかかる。西岡に会って、やっぱりそんなことはないのだと、佳織は安心したかった。
「いらっしゃいませー」
店員の朗らかな声に迎えられるように、自動ドアが開く。そこから、待ちわびた相手が姿を現した。
「西岡さん」
「あ。どうしたの佳織、急に?」
半袖のワイシャツにネクタイというビジネスマン然とした姿に、佳織はこの人が自分の恋人であることを誇らしく思った。
「あのね、ちょっと大事な話があって」
「大事な話?」
西岡は首を傾げ、佳織の手を引いた。
「こんな所で話すのもなんだから。行こうか」
微笑む西岡に連れられ、佳織は立ち上がった。
行こうか、と西岡が言う先は分かっている。ホテルだ。
最近、西岡と会うたびに回るコースは決まっていた。食事の後、ホテル。映画の後、ホテル。ショッピングの後、ホテル。
そういえばデートの最後には必ずエッチが来るな、ということを漠然と佳織は思い出した。
今までにも何度か来たことのある、外装はビジネスホテルで中身はラブホテルという建物の部屋に入り、西岡は早速のようにネクタイを外した。
なんだか最近は、事の前置きも簡略化されてきている気がする。
「で、大事な話って?」
「うん、あのね」
ベッドに腰掛けた佳織は笑顔で、自分の腹をさすった。
「あたし、妊娠したかもしれないの」
「…え?」
佳織の幼い目はこの時、西岡の瞳の揺らぎを見逃した。
「親にもまだ言ってないけど、あたし絶対産むわ。西岡さん、奥さんと別れてくれるんでしょ? そしたらあたしと子どもと三人で、」
「ちょっ、ちょっと待って、困るよ!」
動揺した声に遮られて、佳織は笑顔のまま固まった。
「困る…って?」
問う佳織の前で、西岡は自分の頭をがしゃがしゃと掻き回した。
「離婚なんて、できるはずないだろ。仕事も軌道に乗ってきたところなんだよ。昇進の話だってある、それをふいにしろって言うのか?」
呆然と見上げる佳織に、それまで見せたことのないような下卑た薄笑いを西岡は向けた。
「お前もさ…ちょっと考えたら分かるだろ、俺が本気で離婚するって思ってたのか?」
――何、言ってるの、この人。
佳織は緩慢に俯き、自分の爪先を見つめた。
「だって……子ども、産むって…あたし……」
「産むなんてマジで勘弁してくれよ! 俺の人生も考えてくれ。金は出すから、堕ろそう、な、佳織。頼むよ、この通り!」
情けない悲鳴を上げて、西岡は佳織の足元に跪き、床に額をつけた。
――何よ。何なのよ。
いつも頼もしく見えていた背中を見下ろして、佳織は涙も出なかった。
「石川佳織、もう3日学校休んでるんだってな」
今日休めば4日目だという日の朝、相談室のソファでくつろぐ萱島が言った。
「みたいですね。あの後何かあったのか……それとも僕の言ったことがそんなにショックだったのかなぁ…」
責任を感じて気落ちする岬を萱島が宥めていると、相談室のドアがノックされた。岬の返事を待たず、そのドアが開かれる。
「…石川さん」
不機嫌に佇むその姿に、岬も萱島も目を瞠った。
「妊娠。してなかったわ」
室内に足も踏み入れず、低い声で出し抜けに佳織は言った。
「市販の検査薬、生理が遅れ始めて1週間から使えるって書いてあった。念のために産婦人科行ったら、若い時にはよくある生理不順でしょう、で片付けられたわ」
「そ…そう…」
良かったね、とも言えない雰囲気に、おずおずと相槌を打って岬は萱島と顔を見合わせた。
眉を寄せた膨れっ面で、佳織は岬を睨んだ。
「ごめんなさい、先生」
「え?」
それが人を睨みつけて言う台詞かと思いながら、岬は首を傾げた。
「…先生の言った通りだったわ、そりゃもう笑っちゃうようなリアクションだったわよ。何なの大人の男って。下らなすぎて罵る気も起きやしない」
苦々しく吐き捨てる佳織に、いや大人の男がみんなそういうわけではない、というフォローを入れる余地は全くなく。
「これに懲りたからもう二度と年上の男となんかつき合わない。無闇にエッチもさせないわ。しっかり反省しました、それじゃ!」
それで言いたいことは終わりなのか、岬に何を言う隙も与えずに佳織はぴしゃりとドアを閉めてしまった。
嵐が去って、室内に白けた沈黙が落ちる。
「…何だったの、あの子」
「さあ…」
肩を竦めた萱島が暢気に頭の後ろで手を組んだ。
「結果オーライか?」
問われ、複雑な思いで岬はデスクに頬杖をつく。
「…まあ、妊娠もしてなかったし、碌でもない男と手も切れたみたいだし、結果オーライっちゃそうかもしれないけど。……なんか全然、僕の言いたかったことの本質は伝わってないような気がする」
やり切れなく拗ねて見せた岬を、萱島が軽く笑い飛ばす。
「ま、とりあえず良かったんじゃねぇの。お前が言ったことの意味は、またそのうち考え直す時が来るさ」
「男性不信になんなきゃいいけど、あの子…」
「それはお前が心配するこっちゃねーだろ」
「まあ、それはそーですけど」
「…なんかお前も大変だよな、相談されて、八つ当たりされて。ちょっと不憫だ」
「んもーホント、割に合わない気がしてきた……」
こうして、憤懣やるかたない石川佳織の八つ当たりによって、後味がいいのか悪いのかよく分からない一件は幕を閉じ。
けれど息をつく暇もなく、岬の携帯は震えつづけるのだった。
<END>