縫合手術を終えて処置室へ移された松野は、一晩だけ入院することになった。
痛々しい包帯を施された松野はベッドに横たわり、白い天井をぼんやりと見上げている。
その傍の椅子に、血に汚れた白衣を丸めて手にした萱島と岬は腰掛けた。
「…何やってんだよお前は…」
責めるようにではなく、萱島は小さな声で言った。
「痛ぇだろ、あんなもんで刺したらよ。んなことしたら俺らが心配するって、わかんねぇお前じゃないよな。なんだ、心配してほしかったのか」
「先生…」
「気を引きたいだけならもちっと加減しろ、動脈までやるな」
くしゃ、と髪を撫でた萱島に、松野は消え入りそうな声で、ごめんなさいと詫びた。
「なんで刺したのか、よく分からないんです……なんか頭が真っ白になって。なんとなく、俺いなくなった方がいいかなとか思って」
「思うなバカ」
ばっさりと切る萱島。その隣で、岬は黙って松野を見つめていた。
「…先生。親父がね…殴るんです母さんを」
「うん」
岬は知らなかったことだったが、萱島は既に話を聞いていたのか、驚きは見せずに頷いた。
「俺が成績落としたり、授業に出なかったり、そういうのは全部母さんが俺をちゃんと教育できてないからだって、母さんを責めるんです。母さんはそれを真に受けて、一生懸命俺を教育しようとする。…だけどそれは違う。成績落とすのも授業に出ないのも俺の責任なのに、父さんから責められるのは母さんで、苦しむのは母さんで」
「うん」
「……根本から間違ってるんだ。父さんは子どもの教育になんか関心なくて、ただ自分の世間体が気になるだけで。母さんは家の中で孤立して、父さんに縋るしかなくて。母さんは、自分が俺をちゃんと育てられたら父さんの気を引けるんじゃないかって勘違いしてる。俺は母さんが父さんの気を引くための道具にされた。昔はそれが辛かった、甘えを許してくれない母さんが俺を通して父さんを見てるのが寂しかった。でも今はそうじゃなくて。そんなことが辛いんじゃなくて」
語る松野の左の拳に力がこもるのを、萱島がそっと手で制する。
「俺が、母さんを守れないのが辛い」
痛みの在処を晒して、松野はようやく涙を見せた。
「父さんの間違いも母さんの間違いも、俺がちゃんと指摘して正せば母さんは父さんから殴られたりしないのに。でも俺が反抗したらまた母さんのせいにされるかもしれないって思うと怖いんだ。大学だって父さんの世間体のため、だけど行きたくないって言うこともできなくて」
松野は右手で目元を覆った。
「……俺には母さんを守れない」
絶望の声に、手を差し伸べなければと思いながらも、岬にはやはり何も言えない。
分からなかった。
母を思う子の心が、岬には分からなかった。
呆然とただ見ていることしかできない岬の前で、不意に萱島の手が、松野の顔を覆った右手を掴んだ。その手を、やにわに取り払う。
「わかってんじゃねえか、お前」
「え…?」
顔を覗き込まれ、涙の残る目を松野は瞠った。
「子どもの立場で、親の関係がそれだけわかってたら十分だ。あとお前に足りないのは、親とのコミュニケーションだけだよ。守れないって、陰でめそめそ諦めてんじゃねぇ。お前が自分の家族のことをどう思ってるか、それをちゃんと全部伝えろ。親父にもお袋にもだ。それで親父が切れるならお袋の代わりにお前が殴られろ。もう18になんだろ、体張って女一人守れねぇようでどーする」
そしてまた、松野の頭をくしゃくしゃと撫で、明るく笑いかける。
「間違う親なんざいくらでもいるさ。子どもとの対話の中で、その間違いに気づいていくしかねぇんだよ。親っつってもただの大人だしな、大人なんて愚かなもんさ」
「先生……」
泣き顔に笑みを浮かべた松野を、直視できず岬は席を立った。
その時、処置室のドアがバタンと開き、中年の女性と教頭が入ってきた。
「祐ちゃんっ!」
金切り声に、これがその母親かと、岬と萱島は場を譲った。
「…母さん」
「何てことしたの! お父さんに何て言えばいいのよ! こんなことして、もう言い訳のしようがないじゃない!」
「まあ、ちょっと落ち着いてください、お母さん」
ベッド上の松野に掴みかかっていきそうな勢いの母親を、教頭が後ろから必死で宥める。その傍で、萱島は物言いたげに眉を顰め、憮然と突っ立っている。
「……あの」
そこで小さく声を発したのは、岬だった。
「僕は、世間一般の母親がこういうときどんな反応をすべきかなんて知りませんけど」
驚いているような萱島の視線を感じる。
「…怪我、してるわけですし。真っ先にその心配をしてほしいと、僕は思うんです」
一体自分が何を言われたのかと、呆然としている母親に向けて一礼し、岬は処置室を出て行った。
「――ちょっと、なんなのあの人」
ドアが閉まったのを見届けて、母親は教頭に詰め寄った。
「あ、あの、彼は心理相談員もしてくださっている本校の教員で、」
「失礼じゃないの、私がこの子の心配をしてないって言うの!?」
「してるように見えねぇから言ったんだろ」
その母親の背後でげんなりと、萱島は母親の神経をさらっと逆撫でた。
「あなたはなんなのよ!」
「通りすがりに松野くんの止血をした保健医ですよぉ。…ホレ松野、いい機会じゃねぇか、さっき言ってたこと全部話しちまえよ。俺もいてやるからさ」
「いなくていいのよ! 教頭先生、こんな人が学校の保健医だなんて、どういうお考えでいらっしゃるんです!?」
「…母さん、黙って」
小さく、しかしはっきりと言った松野に、お、と萱島は期待に眉を上げた。
「祐ちゃん…誰に向かって黙れなんて」
「ごめん、口が過ぎた。でも頼むから、俺の話を聞いてほしいんだ」
母親も、そんな毅然とした我が子を見るのは初めてで、はっと息を飲んで背筋を伸ばした。
そして松野は、傍にいる萱島の存在に支えられながら、ぽつりぽつりと自分の考えを伝え始め、その長い話が終わる頃、涙を流し合う親子を残して萱島は教頭と処置室を出た。
「……私の目はあながち間違ってもないと思いませんか、萱島くん」
学校へ帰るタクシーの中で、教頭が萱島にそんなことを問い掛けた。
「彼…守谷先生がうちを受験された時、私も面接に立ち会ったんですけどね。臨床心理を専攻されていたと聞いて、それから短い間ですが言葉を交わして、ああこの人にならうちの心理相談員を任せてもいいと思ったんです」
「そうだったんですか」
へえ、と目を瞠る萱島に、ふふ、と教頭は笑みを漏らした。
「真っ先に怪我の心配をしてほしい、ですか。彼の心からの気持ちでしょうね、まっすぐで、嘘がない」
「…ええ」
「今回のことは、就任して間もない時に起こったことなので、きっと落ち込んでいるでしょう。萱島くん、彼をフォローしてやってください」
「先生…」
新任教師への教頭の情を感じ、萱島は笑みを浮かべた。
「…あの、教頭先生。関係ないですが」
「はい?」
「ズレてます」
「む」
タクシーの中、ルームミラーを覗き込みながら教頭は頭を直した。