週明けの月曜。
岬はいつもより少しだけ、家を出るのが遅れた。学校に着いて、相談室に荷物だけ置いて、職員室に上がって職員朝礼に出席する。その職員朝礼が、いつもより少しだけ長引いた。職員室から相談室に戻ってきた時には、もうすぐ1限が始まる時間だった。月曜は、1限から1年生の授業が入っていた。
急ぎ気味に教室へ向かった岬はこの日の朝、毎朝の日課となっていたはずの相談室のパソコンのメールチェックをしなかった。
このことを岬は、後になって後悔することになる。
この日松野は、父親の言いつけ通り、朝から教室にいた。
何か珍しいものを見るように遠巻きに視線を寄越す級友たち。何しに来たのぉ、とクスクス囁き合っているのは女の子。
けれど松野にはそんなことはどうでもよかった。
授業を受ける机の影で、松野は携帯を何度も開ける。
返事が来ない。守谷先生から。夜の間に送ったメールにも、必ず朝には返事をくれるのに。
…分かっている。携帯同士のメールのやりとりじゃないんだし、メールチェックをしてないか、返事をする時間がなかっただけなんだろう。それは、分かっているのだけど。
でも、今が一番助けてほしい時なのに。
「じゃあこの問題を……松野」
突然呼ばれ、松野は咄嗟に携帯を机に押し込んだ。
黒板の前で問題を指し示している教師が松野を見ている。数学の授業中だったことを、やっと松野は思い出した。
「前に出てやってみて」
教師に言われ、松野は席を立った。ベクトルと複素数の複合問題。突然の指名だったけれど、うろたえるほどの問題ではなかった。
カツカツと音を立てて解き終えると、目が合った教師はにっと笑った。
「オッケー。よく勉強してるな。みんな、コレ模範解答。わかんなかった奴、とりあえずこれノートに写しとけ。計算過程で何やってるか解説していくから聞いとけよー」
サンキュ、とまだ若い教師に背中を押され、松野は席に戻る。その途中、ひそひそとした声を聞く。
「あいつK大の医学部だってよ」
「げ~、マジかよ。既に人間の偏差値じゃねぇし」
「授業出なくても勉強できる奴が、なんで今日は来てんの?」
「さ~。頭のいい奴の考えることはよくわかんねぇよ」
席に着いて、松野はまたそっと、机から携帯を取り出した。
(守谷先生……俺、どうしたらいい?)
もう一方の手が、ペンケースからシャープペンを取り出す。
突然の衝動を、松野は止めることができなかった。
その頃岬は、3年生とは中庭を隔てて隣の校舎にある1年生の教室で授業をしていた。
「生物のからだはみんなこの細胞から成り立っています。この細胞の中にはいろんな器官が入っていて、これを総称して細胞小器官って言います。じゃあ資料集の15ページ見てみようか、細胞を拡大した絵が描いてあるよね。左のが植物の細胞で、右のが動物の細胞。細胞ってすっごい小さいんだけど、その中にこれだけのものが入ってるわけなんだ。じゃあまず植物の細胞の中に何が入ってるかと、それぞれがどんな働きをするか見ていこう。青木さんから順番に、何が入ってるか言ってみて」
生徒の発言する順に、黒板に『核』『ミトコンドリア』『液胞』などと書き並べていく。
あらかた器官名が挙がって、それぞれの説明に入ろうとした時。3年生の校舎の一室から、甲高い悲鳴が上がった。
生徒の関心がそちらへ向く。岬もチョークの手を止め、そちらを見やった。
「なんだろうねぇ、騒がしいな」
感想はそれだけで済ませて、授業に戻る。しかしそれから5分ほどして、岬のいる教室に向かってバタバタと慌しい足音が近づいてきて、ガラッと乱暴にそのドアが開いた。
「守谷先生っ!」
3年生の、見覚えのない生徒が必死の形相で岬の名を叫んだ。
「松野が……!」
その名が出た瞬間、岬の胸がザワ、と騒ぐ。
「…っとにかく早く!」
もどかしく手を引く生徒に、岬は教室へ向けて「自習!」とだけ言い置いて、隣の校舎までの廊下を走った。
二人が向かったのは3年1組。3年生のトップクラス。松野のいるクラス。
その窓側の席の周りに、小さな血だまり。その中に、裾を赤く汚した白衣の背中がしゃがみこんでいた。クラスの生徒たちは、その席を囲むように遠巻きに離れていた。
「萱島先生、守谷先生呼んできた!」
岬の手を引いた生徒が、白衣に向けて呼びかける。すると、萱島が肩越しに岬を振り返った。
「遅ぇ。行くぞ」
萱島はいつもの仏頂面に輪をかけた不機嫌さで立ち上がる。その脇には、左腕全体を真っ赤に染めて、しかし止血処置は既に終えられた松野が、力なく抱えられていた。
「松野く…どうして」
「話は後だ。ホレ、早く来い。お前も行くんだよ」
手を引かれ、岬は戸惑った。遠くから、救急車の音が近づいてくる。
「行くってどこに」
「病院だろうが、こういう場合。…って誰だ勝手に救急車呼んだ奴は!」
「あ、あたしです」
血の海と化した松野の席から遠ざかった少女が、おずおずと携帯を持った手を上げた。
「ったく…俺は生徒が学校に携帯持ち込むってのはどうかと思うんだけどなぁ。まあいいや、来ちまったんだし乗るか救急車」
萱島は松野に問うが、俯いた松野は反応しない。
とりあえず萱島は正面玄関に着いた救急車へ松野を連れて行き、狭いベッドに横たえられた松野の脇に二人も同乗した。
救急隊員の問診を受けている松野を呆然と眺めながら、岬は膝の上で拳を握る。
「一体……何が」
小声で問う岬に、萱島は白衣のポケットから煙草を出そうとしてやめて、不機嫌に脚を組んだ。
「左手首の橈骨動脈に、シャープペンぶっ刺したんだよ」
端的な萱島の説明に、自分の手首が痛むような気がして岬は左手を押さえた。
「なんでそんなこと…」
「それは後で本人に訊け。俺も聞く」
冷静そうに見えて実は動揺しているのか、萱島はがしがしと長い髪を掻いた。
「…松野が月曜の1限から授業に出てた」
「……」
「衝動的な自傷にしちゃ狙いが確実すぎる。どんだけ思い切りゃシャープペンが動脈に届くんだよ」
苦虫を噛み潰したように呟いた後、萱島は黙り込む。
岬には、何も言えなかった。