「どうしたら…ね」
頬杖をついて、岬はパソコンのウィンドウを閉じた。その岬の手元には、3年生の成績一覧がある。
「この半不登校少年が学年2位か…。難儀というか、何というか」
ふう、とため息をつく。
親の希望と子どもの考えに食い違いがあり。その子どもにはやりたいこともわかっておらず。なまじその成績は優良で。
(やりたいことがない…か。でも、そんなもんかなぁ。僕だって、教師になるって最終的に決めたのは大学に行ってからだもんなぁ…。賢い子ほど、今の世の中で下手に希望も持てないのかもしれないし)
時代か、と再び岬はため息をついた。
数回の面接とメールのやりとりの後、取り留めのない雑談の中から松野は少しずつ、自分のことを岬に語り始めていた。
父親は家庭を顧みない仕事人間であること。母親はそんな夫の気を引くことに躍起になっている専業主婦であること。そして母親が夫から認められようとするために、自分は高学歴高収入のエリート人間へ『教育』されていること。
だいたいの事情が分かり、しかし岬は松野の痛みの在処を計りかねていた。
症状は、教室に行きづらいという形で出ている。親の勧めるK大医学部を受験したくないという松野は、けれど勉強そのものを拒絶しているわけではない。現に親の勧めである塾も家庭教師も、松野は抵抗なく受け入れている。将来やりたいことが見つからないからと、松野は勉強を投げ出すことはなく成績も維持し続けている。
そして松野は、決して自分の親を悪くは言わない。
一体彼が何を苦痛に思っているのか、未だ掴みきれないまま岬は今日も返信をし、勤務を終えて下校した。
休みを前にした、金曜の夕方だった。
(俺自身の人生……)
夕食後、自室のベッドに寝そべって、岬からの返信を読み終えた松野はパタンと携帯を閉じた。
それは、そうなのだけど。
では、自分の一番の望みが、自分自身からは離れたところにあるときはどうすればいいのだろう。
核心を掴めない岬同様、松野も自分の思いを伝えあぐねていた。
守りたい者がいる。自分のことを差し置いてでも、大切にしたい者の思いがある。
しかしそれを伝えるには、どの言葉も偽善的に響くような気がして。
ふう、とため息をついたところで、階下の玄関が開閉される音がした。父親が帰宅したのだろう。時計に目をやると、まだ9時を回っていない。今日は早いな、と松野は思った。
――と、その時。
ガタン、とリビングで椅子か何かが倒れるような音がし、立て続けにバタンバタンと乱暴な音が聞こえた。
はっとし、松野はベッドから飛び起きた。自室のドアを開ければ、2階にまで聞こえるような怒鳴り声。それは父親のものだった。
咄嗟に、まただ、と口をついた。
「昼間俺の会社に学校から電話があったんだぞ、お前は昼間に何をしてたんだ!」
階段を、急いで、けれど足音を立てないように降りる。
「祐二が授業に出てないことをお前は知ってたのか? なんで行かせないんだ、高校の単位に出席時数が関係することも知らないのかお前は!」
ドアの開け放たれたリビングでは、仁王立ちの後姿を見せる父親の足元に、母親が頬を押さえ、小さく蹲っていた。
殴られたのだ。また。
「子ども一人満足に育てられないのか、このバカが!」
普段はそんな風に人の上に立ったような言い方をするようには見えない、そして声を荒げるようにも見えない父が、母を罵倒し、手を上げる。
「ごめんなさい、ちゃんとします。ちゃんとします」
小さな、震える声で母が謝罪を繰り返すのに、松野はわざとドアノブを鳴らした。
父が、松野が階下に降りてきたことに気づく。しかし振り返りはしなかった。
「祐二。来週からは授業に出なさい」
硬い声に、松野は黙り込んだ。しかし髪を乱して頬を赤く腫らした母と目が合うと、松野は俯き、歯を食いしばった。
「……はい」
その返事に満足したのか、父親はリビングのソファにスーツの上着を投げ、疲れたように身を沈めた。
母親は松野とは目を合わせないようにいそいそと立ち上がって倒れた椅子を直し、夫のために食事の準備にかかる。
見ていられず、納得もできず、松野は踵を返した。
――間違っていると。
誰か。
教えてやってくれないだろうか、あの哀れな母に。
自室に戻り、松野はベッドに置きっぱなしにしていた携帯を握り締めた。
この小さな手では誰も守れないと。