サクラサクマデ -03-


「どぉぞ~」
 間延びした応答を受けて気が進まないながらも岬が保健室のドアを開けたとたん、ぎゃあっ、という叫び声。
「いでっ、いてぇよバカ萱島!!」
「うるせえ男がすり傷くれぇでガタガタ言ってんじゃねぇよ!」
「もーちょっと優しくできねぇのかこのサド保健医!!」
「なんだお前この俺に優しくしてほしいのか。やさし~くな、こう、やさし~く、消毒をな」
「いでぇーっ!!」
 向かい合わせに椅子に座っている、萱島と体操服姿の少年。どうやら萱島に向かって突き出した右肘は盛大に擦り剥いているらしい。
「ホレ終わり! 俺様のおかげで化膿に苦しんだりすることはないわけだ、感謝しろクソガキめ。体育の度ごとにケガばっかこさえてきやがって」
「ちくしょー、上の救護室が開いてたらそっち行ってたっつーの!」
「おう、次からはそうしてくれ、俺は忙しいからな」
「何言ってやがんだ、いつ来ても暇そうに煙草吸ってるくせによ」
 けっ、と毛先の赤茶けた少年は最後まで悪態をつき、脇によけた岬の横をバタバタと出て行った。
 手当ての道具を片付けながら、萱島は眼鏡を押し上げ、岬に笑いかける。
「よぉ、そっちからご来訪とは珍しいな」
「…生徒の見てる前で喫煙してたんですか」
 呆れたようにため息を交えて言う岬に、萱島は気まずそうに目をそらした。
「俺が休憩してる時に限っていきなり入って来るんだよ、無礼なガキどもが」
 さっきから生徒のことをガキ呼ばわりしている萱島のその口を戒めたいような気もするが、邪険にする言葉のわりにはその口調も表情もやわらかくて、岬には何も言えなくなる。
 さっきの少年も、三十路も半ばを過ぎた独身女性の養護教諭が在室中だったとしても、ひょっとしたら選んで萱島の元へ来るのかもしれないと岬は思った。
「で、どうしたよお前? 松野は?」
 さっきの少年が座っていた席を勧められて、背もたれのない小さなそれに岬はちょこんと腰掛ける。
「授業に出るって、さっき」
「まじか! 今日はもう授業出たくないよーなこと言ってたのに。やっぱお前に相談させて正解だったなー、効果覿面だ」
 岬の肩を叩いて喜ぶ萱島に、居まずく岬は俯いた。
「…僕、何もしてません」
 低い声に、萱島は訝しげに片眉を上げる。
「肝心な話は何も聞けてないし。彼が何を悩んで、どうして教室になかなか行けないのかってことも、全然」
 岬は、自分がひどくいじけた声を聞かせていることに気づけずにいた。
「そりゃあお前、初対面の人間相手に自分の身長体重生い立ち、いきなり話す奴もいねぇだろ」
「でも先生は知ってるんでしょう? 知ってて今まで彼の相談を受けてきてたんでしょう、どうして今更僕に相談させるんですか? 僕なんかより先生の方が、全然彼とも分かり合えてて」
「だから当たり前だろ、初対面のお前より付き合いは長いんだからよ」
 眉を寄せて、少し苛立ったように眼鏡を外した萱島は、俯いた岬の頬を軽くはたくようにして上を向かせた。
「何焦ってんだ、お前」
「…!」
 萱島を前にすると、普段は意識しない僻み根性が表面化して、くだらない嫉妬を覚えてしまう自分がいる。それを見透かされたような気がして、岬は唇を噛んだ。
「焦ってなんか、」
 けれどそんな岬に気づいているのかいないのか、ごく真面目な表情で萱島は続ける。
「俺が松野にお前に相談するよう勧めたのは、お前ならちゃんとあいつの力になってやれるって思ったからだよ。ここ数日お前と一緒にいて、あいつのこと任せられる人間って、俺が判断したんだよ。それにあいつにとってもお前の方が歳も近いし、一対一でしっかり向き合ってもらえた方が安心するだろうと思ってよ」
 萱島が相談室に入り浸っていた理由が岬の人格を見極めるためだったのだと知って、岬は目を瞠った。その岬の頭を、松野にしたのと同じように、萱島はくしゃっと撫でる。
「だから、気長にあいつの話聞いてやってくれ。力になってやってほしいんだ。俺も相談に乗るからさ、な」
 眼前で微笑まれて、岬は一つ、自分の鼓動が高鳴ったような気がした。
「…はい」
(この人は――)
「よし。頼むな」
(僕のことはからかってばかりだし、口も悪いけど、本当はすごく、生徒のことを大切に考えてるんだ……)
 萱島に対する見方が大きく変わり、岬の胸の中に何か暖かいものが灯る。
 そしてやはり萱島はゲイなどではなかったのだと、納得して岬は、頭痛を訴える少女が来室したのを機に席を立った。


 放課後の駐輪場で、松野は上機嫌で自転車に跨った。
 今日は4・5・6限の授業に出られた。内容は既に予備校でやったことばかりで大した収穫はなかったが、教室へ行くことができたということが松野にとっては大きな出来事だったのだ。
 萱島から他の先生に相談するよう勧められた時には、萱島にとって自分はもう重荷でしかないのではないかと思って怖かった。教室に行く気になれない自分にとって保健室は救いの場であったのに、そこへすらもう行ってはいけないのではないかと思うと不安だった。
 けれど萱島の真意はそうではなく、本当に松野が相談するにふさわしい相手を勧めてくれただけだった。そうでなければ萱島は、あんなふうに笑いかけてはくれない。
 そして勧められた守谷岬という新任教師、彼も不思議な人だった。他の教科の教師の中には、松野に対し、成績さえ良ければ授業に出なくてもいいと思っているのかとか、保健室登校など甘えに過ぎないとか、きついことを面と向かって言ってくる者もいる。そういった教師たちとは、岬は全然違う空気を持っていた。
 それでいいんだよ、と、受け容れられている感じ。それが松野にとってはひどく心地いい。
 いつ来るかメールしておいで、と岬は言っていた。帰ったらプリントを探してすぐにメールをしようと、松野はいつもより速足で自転車を漕いだ。

「ただいま」
 明るく玄関のドアを開け、松野はダイニングへ顔を出した。
「ただいま、母さん。あのさ、こないだ渡した相談室のプリントってどこにある?」
「お帰りなさい祐ちゃん。プリントならリビングのチェストの引き出しに入ってるけど、ちょっと待ちなさい」
 固い母親の声に呼び止められ、松野はびくりと肩を揺らした。
「…今日担任の先生から電話があったわよ。学期始めの進路希望調査、出してないそうじゃない。K大の医学部にするって、こないだお母さんと決めたわよね?」
 詰問の声に俄かに胃のあたりへ不快感を覚え、松野はみぞおちをぎゅっと押さえた。
「出すの…忘れてただけだよ。明日出す、ちゃんと」
「お願いよ、ちゃんとしてね。それから今日は予備校の日でしょう、早く準備して出かけなさい」
「うん。行く」
「学校の授業の進度が遅いなら出なくたって構わないけど、大学にはちゃんと入ってちょうだいよ、そうじゃなきゃお母さん、」
 母親はいつもそうして、神経質そうにこめかみに触れる。
「…またお父さんから、ちゃんと教育してるのかって言われちゃうんだから…」
 ギリ、と痛む胃。それを押さえた手の甲をガリガリと血が滲むほどに掻き毟って、松野はチェストからプリントを掴み取り、階段を駆け上がった。
 自室に入り、ようやく息をつく。
 ベッドに横たわり、松野は自分の携帯に、プリントに記されたメールアドレスを打ち込んだ。