サクラサクマデ -02-


「あ、はい!」
 慌てて岬がドアへ向き直ると、音がしないほどゆっくりと、部屋のドアが開かれた。そこから血色の良くない、痩せぎすの男子生徒が顔を覗かせる。
 失礼します、とか細い声を聞かせて敷居をまたぐかと思うと、男子生徒は室内に岬の他に萱島の姿を目に留め、足を止めた。
「おう、松野。どーした」
 男子生徒は足元の上履きの色から3年生だとわかったが、どうやらその彼と知り合いらしい萱島が岬よりも先に声をかける。
「ちょっと、萱島先生がそんなこと訊かないでください」
 第三者の存在のためか入りづらそうにしている松野と呼ばれた生徒の様子を察して、岬は萱島の背中を追いやるように押した。
「何だよ、さっきまで暇こいてたくせに、急に仕事してます面しやがって」
「もう、いいからさっさと出てくださいよ、相談者来てるんですから」
「へーへー、用無しは追い出されますよー」
 憎まれ口を叩きながらも萱島は、松野に場を譲るように席を立った。そして部屋を出る間際、不意に思いがけないほど優しげな笑みを見せ、松野の頭をくしゃりと撫でた。
 あれがいつも仏頂面で優しさのかけらも見当たらない萱島かと一瞬岬側が目を疑っている間にも、萱島は松野を部屋に入れ、自分は廊下へ出て行く。
(生徒にはあんな顔するんだ……)
 そう思うと、自分に対しては松野に向けたような表情は見せない萱島はやはり、恋人になれだのと迫るふりでただ自分をからかいたいだけなのだろうと、安堵したような肩透かしのような奇妙な思いが岬の胸に去来した。
「…先生?」
 声にはっと我に返ると、萱島が出て行ったドアを見つめたまま立ち尽くしていた岬を訝るように、松野が小さく首を傾げていた。
「あ。ごめんごめん、どうぞ座って」
 慌ててソファに座るよう促すと、松野はハイ、と頷いて示された席に座った。
 時計を見ると、まだ3限目の途中だった。
「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
 尋ねると、松野は小さな声で紅茶、と答える。それに笑みを向けて、岬はチェストの上に設えたポットと茶器で紅茶を淹れ、二人分のカップをテーブルに置いた。
「今って何の授業中だったの?」
 出された紅茶に恐縮そうに砂糖を入れる松野は、その問いに少し俯く。
「数学…」
「途中で抜けてきたのかな」
 すると松野は、ふるふる、と首を横に揺らした。
「1限の途中に遅れてきて、でも教室に行けなくて……気分悪くて、隣の保健室で寝てたんです」
「そうだったんだ」
「そしたら途中で萱島先生、こっちに行っとくから用があったら来いって言って。気が向いたら守谷先生にも相談してみろって」
 勧められたから来てみたんです、とまた松野は俯いた。
 それを聞いて、なぜ松野が来たときに萱島がどうした、と声をかけたのか、岬にも納得がいった。秘密厳守のこの部屋で萱島が話に首を突っ込んでくることを岬は厭うたのだが、そういうことならば仕方ない。
「気分の方は、もう大丈夫なの?」
「あ、はい、大丈夫です」
「そう、よかった」
 自分の体調を気遣ってくれた岬ににっこり微笑まれて、松野はさっと顔を赤らめて岬から視線を逸らした。
「最近はあんまり教室へは行けてないのかな?」
 岬がそう問うと、松野は一瞬岬の顔を凝視し、そこに叱咤の色がないのを確かめてから、膝に乗せた自分の手元に視線を落とした。右手の指が、皮膚炎なのかかなり乾燥してひび割れた左の手の甲を掻く。
「ときどき行きます。…けど、保健室に行くことの方が多いです」
「そうかぁ。でも学校に行こうって気はあるんだね、偉い偉い」
 高校3年生の男子生徒に言うには少し幼い褒め言葉を使った岬に、松野は少し驚いたように顔を上げ、ようやく安堵したように表情を綻ばせた。
「守谷先生って、なんか他の先生と違う」
「ん? そうかな。違うかな」
「萱島先生は保健の先生だから違っても当たり前かと思ってたけど、守谷先生は普通の教科の先生なのに、授業出なくても怒らないんですね」
「僕はまあ、生物教えてるのも好きだけど、ここでこうして生徒とお茶してるのも好きだからね」
 しかも授業中に、と付け足した岬に声を立てて笑って、松野は紅茶に口をつけた。
「本当はいっぱい、聞いてもらいたいことがあるんです。俺がなんで授業に出られないかとか、今こんな状態で卒業してからどうしたいのかとか」
「うん。聞くよ」
「…でも今日はいいや。また今度、何話すかまとめてから来ます。いいですか?」
「もちろん。こないだ配ったプリントは持ってる? あれに僕への連絡先が書いてあるから、いつ来るか決めてメールしておいで」
「はい」
 嬉しそうに笑って、何か憑き物が落ちたかのように松野は明るく立ち上がった。
「あ、ちょっと待って松野くん。きみ、クラスと名前は?」
「えと、3年2組の松野祐二です」
「了解、ありがと。これからどうするの?」
「あの。次の授業には出ようと思ってるんです」
「そうなんだ。…あ、じゃあもうそろそろ3限終わりのチャイム鳴るね」
「はい。ごめんなさい先生、まだ何も話してないのに」
「うん、いいよ。顔色もさっきより良くなったみたいだし、行く気になった時に行っておいで」
 相談室を出ようとする松野に岬が片手を上げると、松野はありがとうございました、と頭を下げて、今度はガラガラと音を立ててドアを開閉して出て行った。
 それを見送って、岬はその場に、考え込むように立ち尽くした。
 3限終了のチャイムが鳴る。10分の休憩を挟んで、4限はまもなく始まる。明るく笑って相談室を出て行った少年は、次の授業には出られるのだろうか。
 高校3年生で保健室登校をしている松野。その彼を、わざわざ萱島が自分の元へ寄越したその意味が、岬にはわからなかった。
 保健室で休んでいた松野を残して、いつものように何の用もない風を装って萱島が相談室へやってきたのも、実は岬に会いにというよりも松野の足を相談室へ促すためだったのではないだろうか。
 それまでずっと萱島にだけ相談してきていたのだろう松野は、萱島から他の教師へ相談するように勧められ、見捨てられたような不安を感じたことだろう。相談室を覗いて萱島の姿を認めた松野は、一瞬怯んだような表情を見せた。それを見抜いていたのか、萱島は松野の頭を撫でて笑いかけることで、自分が松野を見捨てたのではないということを無言で伝えた。
(計画的だ…)
 岬はここで、萱島のことを恐ろしく頭の切れる男だと判断する。ならばその切れ者の男はなぜ松野に自分に相談するよう勧めたのだろう。
 そして岬は、大学で臨床心理を学んでいたとはいえ、学部卒で実地のカウンセリング経験はない。理論はわかっているし、初回の面接としては先ほどの応対も、クライエントの警戒を解き、距離を縮めることに成功したといえるだろう。しかし主訴も背景もわからない状態から、松野と接していくにはいささかの不安がある。
 仕方なく岬は、相談室のドアに掛かった表示を『不在』に切り替え、隣室のドアを叩いた。