始業式を終え、入学式を2日後に控えて、岬は心理相談室の中、学校支給のノートパソコンを前にカタカタと作業をしていた。
打ち込んだ文書をざっと見直し、プリンタの電源を入れて、それを打ち出す。更にそれを見直して、よし、と呟いたところで何の前触れもなく相談室のドアが開いた。
「よお! …何やってんだお前?」
そこから顔を覗かせた白衣姿の天敵に、岬は露骨に顔をしかめて見せた。
「…何でもいいでしょう」
「何のプリントだ?」
「ちょっと、勝手に見ないでくださいよ!」
椅子に座ったままの岬が取り返そうとした文書は、既に長身の頭上にあった。
「…心理相談室の紹介か」
中学生上がりの一年生にも受けるようにかポップなイラストまで挿入されたその文書は、心理相談室の紹介、相談員の紹介、来室までのプロセス、相談員への連絡先等が書かれている。来室前にどのような相談なのか、いつ来室するのかなど、ある程度情報を得て調整すべきところはすることが目的だ。
最近の高校生はほとんどが携帯電話を持っていて、メールならば来室のきっかけとして少しでも抵抗が無いかと、岬は相談室のパソコンのアドレスを記載した。
「『気軽に来てくださいね』、か。だからお前がこんなもん気軽に引き受けるんじゃねーっての」
呆れたようにプリントを返しながら、萱島は小さく岬の頭を小突く。
「教務からこういうものを準備しろって言われたんですよ」
「知らねぇぞお前、これ見てお前のツラ目当てのお年頃な女どもが相談室に殺到してもよ」
「余計なお世話です」
「恋人が親切にも心配してやってんじゃねぇか」
「誰が恋人ですか!!」
もうこんなやりとりは毎日繰り返していて、どれだけ反論しても柳に風とばかりに受け流されるのもわかっているのに、なんとかこの保健医の態度を是正したくて岬は律儀に喚いた。その直後に、飄々と笑っている彼を見て、脱力し切ってため息をつかねばならないのもわかってはいるのだが。
守谷岬は、この春から私立緑翠高等学校に講師採用となった、新卒の22歳。来年には正式採用となることが既に決まっている。担当教科は生物科、そしてスクールカウンセラー不在の学校で心理相談員も兼任することになっている。
そして岬のいる相談室にここのところ毎日のように入り浸っているのが、隣の保健室の養護教諭、萱島紘介。新卒で緑翠高校に入って、岬が赴任するまで4年間、生徒の相談を受けていた。大学を5年かけて卒業したために、岬よりも5つ年上の27歳だ。
高校の養護教諭が男というだけでもちょっとした驚きなのに、この萱島という男がまた、とんでもない容姿をしていたりする。
染めた風ではない地毛なのだろう薄茶の髪は肩につきそうな長さに伸びっぱなしで、白衣の下はスーツにネクタイなど縁がないのではないかというラフな私服。身長はおそらく180は軽く超えていて、仏頂面さえしていなければ女性からも相当もてるだろう顔はかなりの美形。時折オプションとして縁なし眼鏡が緩くその輪郭を歪める。
はっきり言って、なかなか年齢通りには見られない線の細い童顔の、身長は並より少し高い程度の岬にとって、萱島は男としてのプライドを刺激してやまない、あまり隣には並びたくないような完璧な男だった。
その萱島が、岬を好きだと言う。
いや、好きだと直截的に言われたわけではないが、恋人になれとか1年以内に落とすとか、そんなことを。
5日ほど前に赴任して挨拶に行った岬へアタック宣言をした萱島が、どうやら本物のゲイであるらしいことはこの数日間の萱島の自己申告でわかっている。だがしかし、一方の岬はといえば男に興味を持ったことも持たれたことも今までなかった正真正銘のストレートで。
だいたい挨拶に行く前に養護教諭の萱島を年上の美人女性と妄想して役得だと思ったのは岬の方だったのに、対面した後に役得を口にしたのは萱島の方だった。その時点で岬にとっては全くの計算外だったのだ。
べつに養護教諭が不細工な女性だって、超美形の男だって、多少がっかりはするかもしれないが文句は言わない。しかしその超美形の男が自分を好みだと言って迫ってこられることには、正直迷惑をさえ感じる。
けれどどれだけ迷惑な顔をしようと追い払おうと、めげる様子もなくむしろ親しくなったことに自信をつけたような萱島は毎日一度は岬をおちょくりに相談室へ来ては長居していく。
もちろんその間に生徒相談についての有益な話を聞けることもあるが、まあほとんどは無駄話というか、お友達から関係を始めているような感じだ。
岬としては、関係を始める気はさらさらないのだけれど。
かくして岬の作成したプリントは入学式当日に全校生徒へ配布され、相談室と相談員岬の存在は知られるところとなった。
しかし萱島が懸念したような興味本位の生徒が押しかけるようなことはなく、在室中の岬が暇をしている間も隣の保健室は大盛況、という状態が数日続いた。
「何なんだよ…お前仕事しろよな…」
授業中、手が空いた隙を縫ってまた相談室に来た萱島は、暇そうに本を読んでいる岬をやっかんで口をひん曲げた。
「お前が来て少しは相談関係はこっちに回るかと思や、ちっとも変わんねぇじゃねぇかよ。お前もうちょっと顔売ってこい、顔」
「仕方ないですよ、生徒にとっては『心理相談室』なんて大仰な名前のついたところはまだ敷居が高いんです。そんなところに通ってて変な目で見られないかとか、そういうのも心配だからやっぱり保健室の方が身近なんですよ」
「じゃーお前がいてもいなくても変わんねぇってか」
「だから僕は僕で、相談室への理解を求められるようにちゃんといろいろ考えてますよ」
あーそう、と胡乱げに頬杖をついた萱島を、何ですか、と睨みつけたところで――ふと沈黙が落ちた。視線を合わせたまま、岬には二の句が継げない。
一瞬にして、室内の空気が濃密になった気がした。
普通にデスクに向かって座っている岬と、その隣に椅子を持ってきて同じデスクに肘をついている萱島。その距離が、それまで意識していた以上に実は近かったことに、俄かに岬は動揺した。
モデルのように整った、けれどどこか精悍で男らしさを感じさせるその造作を備えた萱島に傍にいられると、何となく居心地が悪いような、自分が卑屈になっていくような、妙な気分を味わいながら岬は萱島から視線をそらした。
その動作をどう勘違いしたのか、萱島はふっと笑んで手を伸ばすと、岬の頭を引き寄せるように髪に触れた。
「お前、やっぱかわいいな。んな照れんなよ」
「は!?」
そのまま一気に距離が縮まってしまうのを恐れて、岬は慌てて萱島の手を振り払った。
「何言ってんですか、寄るな触るなホモがうつる!」
「テメ…ちょっとした冗談だろうが、人を黴菌扱いしやがって」
「あんたがやると冗談に思えないんですよ!」
「まあ半分は冗談じゃないけどな」
しれっと言った萱島からからかわれ続けていることに怒りを募らせながらも、もうこれ以上何を言う気にもなれずに岬はただ深く息をついた。
そもそもこの萱島という男、岬をからかって楽しんでいるようにしか見えない。本当はゲイなんて言ったのも単なる冗談で、岬を好きなわけでもなく、ただからかいたいだけなのではないだろうか。よく考えればこの女に不自由しそうにない男がわざわざ男を好きになるメリットが岬には分からない。
(そうだ、やっぱりゲイなんて冗談なんだ、僕が困ってるのを見るのが楽しいだけなんだろうこの根性悪!)
そう思い立って岬がそれを問おうとしたとき、相談室のドアが3度、ためらいがちにノックされた。