サクラサクマデ -07-


 学校に戻った萱島が保健室へ向かって廊下を歩いていると、隣の相談室の電気がついていた。ドアの表示も『在室』になっている。
 先に一人で学校へ帰って何をしているのだろうかと、気になって萱島がそのドアをノックするが、反応がない。
 許可を得ないまま勝手に相談室のドアを開けると、岬はパソコンに向かって座っていた。同じ机上には、血で赤く染まった数学の教科書とノート。それを俯いて見つめたまま、岬はじっとしている。
「…何やってんだ」
 声をかけるが、岬はこちらを振り向こうともしない。
 岬が開いているパソコンを覗き込むと、メールのウィンドウがいくつも開いていた。差出人は、松野祐二。受信日時は、土曜と日曜、そして今日の朝。
「何も……」
 肩を落として微動だにしなかった岬が、不意に口を開いた。
「また、何もできなかった、僕」
 落ち込んだ声に、萱島は一つため息をつき、血染めの教科書を手に取った。
「あーあーあいつ、教科書こんなにしちまいやがって。新しいの買わなきゃ読めねぇな中身」
「…僕には分からなかったんです」
「なら仕方ねぇよ」
「分からないのは、僕がそれを持たないから?」
 てのひらに落とすような声に、萱島が眉を顰める。
「僕が、母親を持たないから。だから松野くんのこと、分かってあげられなかった」
「……」
「彼がつらい時なんだって、分かってたら、授業にちょっとくらい遅れたってちゃんとメールチェックしたはずなのに」
 萱島はもう一度、パソコンの画面を見やった。
 松野からの、最後のメール。受信時間は、おそらく自傷の直前。

もう いやだ

「気づけてたら、教室まで迎えに行ったのに」
 岬の声が震える。
「済んだこと、タラレバ言っても仕方ないだろ」
「だけど」
 強い口調で萱島の声を遮って、やっと岬は萱島とまともに視線を合わせた。
「松野くん、僕のこと信頼してくれてた。だからいろいろ話してくれたし、最後に僕に助けを求めてきたのに。僕は何も返さなかった」
 また視線を俯ける岬に萱島は再びため息をついて、岬の頭を自分の腹に寄せる。
「…ちっと落ち着け。見慣れねぇ流血見て、ショックが強かったんだよ」
 おとなしく萱島のみぞおちの辺りで髪を撫でられながら、こみ上げてくる涙を逃がすように岬は息をついた。
「心配しなくたって、松野はお前に裏切られたなんて思ってない。さっきちゃんと母親と和解してたぞ。その母親も、お前の一言にはかなり反省促されてたな」
 どう励まされても自分が何かの役に立ったという気にはなれない岬が、不安げに萱島を見上げる。萱島はそれに、優しく笑いかけた。
「大丈夫だよ。何もやれてないことはない。お前は生徒の話を聞こうと、一生懸命やってるよ。それは生徒だってわかるさ。だから、自信持って頑張れ。これからだろ。な」
 大きな手が、くしゃりと岬の髪を乱す。
「萱島先生……」
「…俺がついてるよ」
 そう言って萱島の手が岬の頬に触れ、萱島が腰をかがめる。
 萱島の整った顔が、吐息が、近づく。
(え――?)
 条件反射的に目を閉じそうになり、そのくちびるが触れるか触れないかという時、はっと岬は我に返った。
「ちょっ…!」
 萱島の胸を押しのけた反動で椅子のキャスターが動き、それがデスクに引っかかってつんのめり、倒れそうになったところで萱島の腕が岬を支えた。
 転びかけたことにか、それともその前の出来事にかわからないが、心臓をバクバク言わせながら岬が見上げると、萱島は飄々と笑っていた。
「ちっ、惜っしーい。もーちょいだったのにな、初ちゅー」
「は!?」
 そうかそういえばさっきのはキスの体勢だったかと思い返すと、咄嗟に押しのけたもののくちびるの先がちょっとかすったような気もして、岬は口元を押さえた。
「あっ、あんた、まさか本当にゲイ!? からかってただけじゃなくて!?」
「あ? 前から言ってたろ、俺。ゲイってこと否定した覚えはねぇぞ?」
「だっ、だ、だって」
「あーもーうるせーうるせー。ホレちゃんと立て」
 言われ、転びかけたまま萱島に支えられた状態なのを思い出して岬は立ち上がった。
「ったく、深刻になってんじゃねぇよバーカ」
 ペシ、と岬の後ろ頭をはたいて萱島は相談室を出て行く。
 その後姿を、さっきから続く妙な動悸と共に、岬は見送った。


 翌日を1日欠席した松野は、朝一で登校して、アポなしで岬のいる相談室を訪れた。
「先生、ごめんなさい」
 接し方に困惑する岬の前で、やけに大人びた表情で松野は謝った。
「守谷先生がすごく心配してたって、萱島先生にめちゃくちゃ怒られた」
 そう言って笑う松野の左手には、手の甲までを覆う包帯が巻かれている。
「…大丈夫、痛くない?」
 尋ねると、松野は困ったように苦笑した。
「痛いです。刃物でやらなかったから余計。縫い目もなんかいびつで、こんなのが一生残るのかと思うとちょっとブルーかも」
「やっぱり傷跡残っちゃうんだ」
「うん。…でも俺、一生この傷跡、大事にしようと思って」
「大事に?」
 微笑んで松野は、右手で包帯にそっと触れた。
「…崩壊家庭の、修復記念。あれから母親と話して、帰ってから父親含めて3人で色々話し合ったんです。そしたらもう、うちの家族がどれだけ意思の疎通がうまくいってなかったか、よーく分かりました。こんなことでもなかったらずっと話し合う機会なんかなかったと思うし…いいきっかけになったと思って」
「そっか…よかった、のかな、一応」
「でも、これも先生のお陰だよ」
「え?」
 分からない顔をした岬に、松野は少し俯いた。
「先生と話してる間に、自分の考えとかが知らない間にまとまってたみたい。3人で話してて、前はぐちゃぐちゃしてて自分でもよくわかんなかったことも、きちんと伝えられた気がした。ありがとうございます」
「そんな…僕は何も」
 改まって頭を下げた松野に、困惑して岬も俯く。
 それからすぐに予鈴が鳴って、授業行かなきゃ、と松野は席を立った。
 その授業中、松野の携帯からメールが来た。授業中にメール打つなよ、と思いながら開封して、明るい文面に、岬は思わず笑みをのぼらせた。

守谷先生

大学、やっぱりK大の医学部を受けることにしました。
今まで医学部向けの勉強はしてこなかったから、
今年合格できるかどうかはわからないんだけど、
あと俺に医者が向いてるかどうかもけっこう問題なんだけど、
これからは目標を持って、桜咲くまで頑張ります。

松野 祐二

(急に明るくなったなぁ、あの子……)
 家族内でどんな話し合いが行われたのか、今度聞いてみようと、岬は思った。


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