We've only just begun -05-


 だが実際は、入院患者と薬局の人間との接点はほとんどない。外来病棟の1階にある薬局と入院病棟とは中庭を隔てて離れているし、入院患者がこちらの病棟に来ることがあったとしても、それは売店や食堂への行き帰りに薬局の前を通りすがる程度のことだ。薬剤師と入院患者とが面識を持つなどということは、滅多にあることではない。
 ただし、例外はある。
「あゆみおにーちゃんっ」
 カウンターからの声に、調剤室に入っていた亜弓は顔を出し、笑った。
「菜摘ちゃん。ちゃんとここに来ること言ってきた?」
「うん。看護婦さんも中村先生も、行っておいでって。でも走るなコケるなってゆう」
「そりゃまぁ、怪我されると困るからな」
 苦笑しながら、頷いてくれた橋本に会釈して薬局を出た。抱き上げてやると、菜摘は嬉しそうに亜弓の首に腕を回した。
 この菜摘という少女、例の、亜弓が転ばせてしまって中村に亜弓を殴らせた小児白血病患者である。
 あの後の処置が早かったお陰で大事には至らず、菜摘は菜摘で殴られた亜弓をひどく気にしていて、後日中村に手を引かれて薬局を訪れた。それ以来亜弓をえらく気に入っていて、頻繁にやってくるのだ。
 既に同僚の薬剤師たちにもおなじみになっていて、彼女が来るとどんなに忙しくても亜弓に休憩をくれるようになった。
「今日はどうしたの?」
 ロビーのソファに座って訊くと、菜摘は少し気恥ずかしそうに脚をぶらぶらさせた。
「あのね。菜摘ね。あゆみお兄ちゃんのお嫁さんになりたいの」
「…え」
 亜弓はうろたえた。ここで適当にOKして適当な約束でごまかせば済みそうなのはわかるのだが、そこではなく、亜弓は『嫁』という単語に狼狽していた。
 しかしその亜弓の横で、菜摘はぷうっと頬を膨らませた。
「でもね、中村先生にそう言ったらね、ぜーったいダメだってゆうの。意地悪なんだよ。だからあゆみお兄ちゃんにお願いに来たの」
「は…ははは……」
 なんて大人気ない。
 むきになって禁止する中村の姿が浮かんで、妙な笑いになってしまった。
「ねー、なんでダメなのー?」
「…あー、それは…」
 菜摘の目はらんらんとしている。
「俺が菜摘ちゃんのお父さんくらいの歳だからかなぁ。菜摘ちゃんのお父さんいくつ?」
「んーとね、29歳」
(……年下じゃねぇか)
 なんとなく打ちのめされた気分で、菜摘の歳を考える。まあ、5歳の子どもの父親なら、20代でもちっともおかしくはないが。
「でもパパのお嫁さんはママだからダメなんだよ。だから菜摘はお兄ちゃんのお嫁さんになるの」
「あのね菜摘ちゃん……俺はどうやらお兄ちゃんではなくおじちゃんのようだ……」
 我が子を見る思いでがっくりと額を押さえると、渡り廊下の方から菜摘を呼びながら一人の看護師がやってきた。
「菜摘ちゃん、ママがお見舞いにきてるわよ」
「ママ!」
 菜摘の顔がパッと輝き、看護師の手を取った。
「じゃあね、あゆみお兄ちゃん」
「またね」
 手を振って薬局に戻ろうとすると、背中から絶叫。
「あゆみお兄ちゃーんっ! お嫁さんにしてねーっ!!」
「…はは……」
 ロビーの人間の注目を浴びながら、亜弓はもはや、苦笑するしかなかった。
 そして近くの柱を振り返り、その裏に回る。
「うわ見つかった」
「なーにやってんですかっ!」
 中村が立ち聞きしていたのである。
「仕事はどうしたんです、仕事は。こんなとこで油売ってられるほど暇じゃないでしょーがっ」
「昼休憩もらったんだよー。いつから気づいてたの?」
「初めから」
「悪趣味だなぁ」
「中村さんこそ。ストーカーまがいですよ。だいたい子ども相手になんてこと言ってんですか」
「だってー。ライバルは早いうちに減らしとくに越したことないじゃない?」
「バカなこと言ってないで、早く昼飯食って仕事に戻んなさい!」
「亜弓冷たい~」
「忙しいんですよ俺はっ」
 中村の縋るような視線を振り払い、薬局へ向かって踵を返す。そしてふと足を止めて振り返り、食堂へ向かおうとしていた中村の袖をつと引いた。
「中村さん。子ども好きですか?」
「え?」
 唐突な質問に戸惑った。
「そりゃ、嫌いじゃないけど?」
「そうですか」
 亜弓ははんなりと笑んだ。
「……ごめんなさい」
「何が?」
 その謝罪の意味が分からず、中村は亜弓を見つめ返した。それをかわして亜弓は薬局へ戻っていってしまう。得心がいかぬまま、中村はその背中を見つめていた。

 ――このとき、二人は気づいていなかった。二人の様子を、別の場所からそれぞれ昏い瞳で見つめる者が、二人いたことに。