秀明は、石田を語る亜弓の話を黙って聞いていた。一通り話し終えると、亜弓は苦しげにため息をつく。
「だから……不安なんだ、俺」
「ん~…。その石田ってのが中村さんを好きかもしれないらしいことはわかったけどさ。だからってなんで亜弓がそんなに不安になる必要があるの。中村さんの恋人は亜弓だろ?」
「でも、向こうの方がいいかもしれない」
「なんでさ」
「……ルックス、いいし」
「それについちゃ亜弓も相当なもんだと思うけどね」
「若いし」
「あんただって三十路にゃ見えないよ」
「…守ってやりたくなるような雰囲気だ」
「そーしてるとあんただって十分儚げだよっ」
いい加減うんざりと、秀明は声を荒げてグラスを置いた。
「ほんとにやめなよそーゆーの! 亜弓は中村さんが好きで、彼はその亜弓と付き合ってるんだろ。向こうの気持ち信じなくてどーすんのさ、疑ってたら自滅するだけだよ!?」
「わかってる! わかってる、だけど」
亜弓は秀明を遮って叫び、グラスを呷った。そして突然小さくうめいてグラスを置くと、口元を押さえた。
「…何? 亜弓、口ん中切れてるんじゃないの? 炭酸がしみた?」
「ん……なんかそーみたい」
亜弓の口を開かせて、その中を覗き込んで具合を見ながら、秀明は苦笑した。
「亜弓、殴られ慣れてないんじゃない?」
口の中はかなり派手に切れていた。
「手を振り上げられたら、歯は食いしばるもんだよ」
「……」
暗に自分は殴られ慣れているということを示す秀明に、亜弓は眉を寄せた。
実際、売りをして生計を立てていた頃の秀明は、ごく日常的に暴力の中に身を置いていた。嗜虐趣味の客の求めにも、金をもらう以上は原則として従わなければならなかった。亜弓は、その世界から秀明に足を洗わせることになった原因の一端を担ってもいた。
しかし亜弓自身、決して殴られなれていないわけではなかった。
決して明るいとは言えない幼児体験の中、亜弓は常に実父からの虐待に晒されていた。それは肉体的なものでもあり、精神的なものでもあり、性的なものでもあった。普段は意識下に押し込めているその記憶も、何かのきっかけで不意に表面に浮上してきては、亜弓に暗い影を落とし、その精神を今なお蝕み続けている。時々亜弓は何かに囚われてしまったように、視線を虚空に彷徨わせることがある。そんなとき秀明は、気づけば必ず大きな声で亜弓に呼びかけ、こちら側に引き戻してやるようにしている。
母親を事故で亡くした後、本来ならば自分を庇護してくれるはずの存在である実父からの虐待とは、一体どんなものであったのか。
同様の体験を持ち、亜弓の周りで唯一その事実を知る秀明にも、彼の抱えるトラウマの深さは測りかねる。自分がゲイであることを早いうちから自覚し、それを正当化するための手段のように男娼の生活を送っていた秀明に対し、亜弓はそれを認める術さえ知らず、ホモレイプに遭っていた自分そのものを否定するかのように、ヘテロを装ってきた。同性とのセックスを耐えがたい屈辱と考えるあまりに、本当に必要としていた中村をさえ当初拒んでいた亜弓の純粋さは、やはり自分には理解するには遠すぎる存在なのだろうと秀明は思う。
「……亜弓」
小さく呼んで、秀明は亜弓の髪を梳いた。柔らかく細い髪は、さらさらと指の間を流れる。そのまま秀明は亜弓の肩に手を置き、引き寄せた。亜弓は従順に秀明に寄り添い、その胸に耳を寄せた。
「亜弓は、なんでこんなに自信がないんだかね。あんたほどの男はそういないのに。自分に自信がない、愛されてる自信がない」
亜弓の目に、新しい涙が浮かんだ。
「だって……秀明、中村さんも、本当の俺を知ったら絶対いやになる。今好きだって言ってくれても、そうなったらどうかわからない」
「やっぱり、まだ言ってないの?」
亜弓は頷いた。
相思相愛になる前、中村は自分のことを一切語ろうとしない亜弓の話を聞きたがった。しかしその後、話すのはその気になった時でいいと言ってくれた。その気持ちは嬉しかったが、やはり話す気になれることはなかったのだ。
「どうしよう――どうしたらいい、秀明? なんで俺、こんななんだろう。まともに語れる過去もない。愛されたことが間違いだった。俺には何もないというのに」
「……亜弓?」
らしからぬ口調でらしからぬことを言う亜弓を、不審げに胸から引き剥がす。亜弓は捨てられた子どものような瞳を潤ませて秀明を見つめた。ふ、と笑う。
「…なんでもない。ワイン注ごうか? チーズでも持ってくる」
椅子を立って、冷蔵庫の前に行ってしまった。その後姿を眺めながら、秀明は考えた。
亜弓に、何かしてやりたいと思う。唯一亜弓の過去を知る者として、そしてそれに少しでも共感できる者として、何か。中村の代わりに自分が傍にいてやれればいいとも思う。亜弓の過去を知っていて、なおその前を去らないのだとわかれば、彼も少しは安心するのではないか。
けれどそれではいけないことも秀明は知っている。過去の傷を後生大事に抱えたまま、それを舐め合っていても進歩はない。だからこそ秀明は身を引いたのだ。
秀明は自分のグラスにワインを注ぎ足した。
それから亜弓が中村の名を口にすることはなかった。
その翌日、中村は出張先から亜弓に電話を入れ、殴ったことを謝り、亜弓も患者に対して軽率だった自分を謝り、二人の間は修復された。石田も、あれから何事もなかったように以前と変わらぬ態度で亜弓に接してきている。再び亜弓が中村の部屋で暮らすことはなかったが、何もかもが元通りになっていた。
2月の終わりには、中村と二人きりで亜弓の誕生日を祝う。穏やかな日々が流れ、桜の綻び始める季節になって。何の問題もないように思われた。
――だが不幸は、そんな幸せな二人に突如降りかかるのだった。
日中の気温もだいぶ高くなってきた4月の半ば。不規則な休日を挟んで出勤したその日、橋本から処方箋の整理を頼まれた亜弓は、その中の一枚に顔色を失くした。
――神様――
小さく呟いて、倒れそうになったのをカウンターに寄りかかってようやく堪えた。
「柴崎さん? なんや顔色悪いですよ?」
心配そうに顔を覗き込んできた石田に大丈夫だと笑った亜弓の手に握られていた処方箋に書かれていた名前、西山栄治こそ、20年も前に親権喪失宣告を受けた亜弓の実父だったのだ。
中村の前でさりげなくその名を出し、明日にも入院する予定だと聞かされ、再び昏倒しそうになった。中村もどうしたのかと心配していたが、どうしても切り出せなかった。
それにしても、なんということだろう。
亜弓は頭を抱えた。亜弓としては、二度と実父の名を見聞きする予定はなかったのだ。兵庫の北西で中学に上がる前までを過ごし、静岡の大叔母のところへ引き取られた後、東京の大学に進学し、そのまま関東で就職した。西から遠ざかるように遠ざかるように生きてきた亜弓が、なぜいまさら実父と鉢合わせしなければならないのか。
そこに何か避けられない運命のようなものを感じて、亜弓は身震いした。会わずに済めばいいと願う一方で、ただでは済まないような予感がある。
亜弓はただ、隣の中村の手をしっかりと握り締めた。