Remember me -10-


 その晩家に帰って秀明に電話すると、秀明は喜んでいるような嘆いているような複雑な悲鳴を上げた後、不満げに愚痴り始めた。
『えーマジでー? ほんとにくっついちゃったのー? うーわやな感じー』
「何言ってんだよ、お前がけしかけたんだろ」
『そーだけどさー。俺の予定としては、失恋した亜弓を慰めるふりしてつけこもうって魂胆だったわけ。わかる?』
「うわ。お前こそ最低だな」
『ちぇー、まあいいけどさー。なんか色々時間かかったみたいだし? 大変だった?』
「ん、まあそれなりに。俺の踏ん切りがつかなかっただけだけど」
『そか。あの…話はした?』
「いや。俺が話したくなったときでいいからって言ってくれて」
『ふーん。案外いい人だね』
「案外…ね」
 亜弓は苦笑した。
『じゃあまたそのうち、3人で飲みにでも行こうよ。あ、お医者様は忙しいか』
「んー、こっちの都合がついたら連絡するよ。ところでお前、今どうしてんの?」
『え? ああ、やっすいボッロいアパート借りて、バイトしながら生きてるよー。売りは完璧やめた。客もみんな切って綺麗な身よ』
「そっか。なんとかやってるんだな?」
『そーんな、心配しないでよ、26歳成人男子を。…あ、ごめん今バイトの休憩中でさ、ちょっと呼ばれたわ。じゃまた今度』
「ん。じゃ」
 慌しく電話の切れた受話器を置くと、いきなり後ろから抱きすくめられた。
「何だって、噂の佐野くんは?」
 耳元で囁かれた嫉妬混じりの声に、亜弓は苦笑した。
「秀明ね。ふられた俺を慰めて落とそうとしてたらしい」
「へぇ。この僕に喧嘩売るとは、いい根性してるじゃない」
「わ、やめてくださいよ物騒な。今度3人で飲みに行こうって言ってましたよ」
「亜弓は行かせたくないなぁ」
 言いながら中村は亜弓の顎を押し上げ、仰向かせてくちびるを塞いだ。
「……う」
 ただでは離してもらえそうにない雰囲気の深いキスに、亜弓が身を捩って逃げようとする。中村は強く抱き締めたまま、亜弓の頬へ首筋へとくちびるを下げ、着たままだった亜弓のコートに手を掛けて床に落とした。その手が腹から服の中に入り、亜弓の胸を探る。
「…や、だ」
 背後の男の腕を掴むが、やめてくれそうな気配はない。
「待てない」
 耳朶を甘く噛みながら囁く。亜弓の躰の芯が熱くなっていく。
「1ヶ月も亜弓に触らなかった」
「でも、ここじゃいやだ」
「ベッドに行く?」
「シャワー…」
「待てないって言ってるだろ」
 ベルトを外した手がその中に入ってくると、亜弓の膝がガクリと力を失くして折れる。その体を抱き支えて、中村は亜弓を抱え上げた。
「シャワー浴びる? 一緒に入ろうか」
 亜弓はかぶりを振った。冗談ではない、あんな明るいところで。
「じゃ、寝室行こ」
 誘われて、何も言えなくなる。自分も欲しいのだと言ったらどう思われるだろうかと、不安でたまらない。
 ベッドの上にそっと降ろされて、亜弓は四肢を伸ばした。寝室の明かりはつけないまま、入り口から差し込むダイニングからの光の中で中村が上着を脱ぐ。ゆっくりとのしかかってきた中村が、もう一度深く口づける。服に手を掛けられ、亜弓は首を振った。
「…自分で脱ぐ」
「亜弓?」
 ベッドの上での自発的な行動は初めてで、中村が怪訝そうに眉を上げる。シャツの前を全部開けると、中村が恐る恐る触れてくる。その指を感じようと、亜弓は目を閉じた。
「…ん……」
 喉を、脇腹を、優しく触れる中村の指が痛い。中村に抱かれたいという想いが強く胸に迫って苦しくなる。
 中村の手が、己の隠しようのない欲情の証に触れたとき、亜弓は涙を落とした。
「ごめ…なさ、俺、こんな……」
 今まで一度もそんな風になったことはなかった。触れられるまで、そこは何の興奮も示さなかったのに。
 羞恥のあまりに亜弓は顔を両手で覆った。その手の甲に、中村はキスをする。
「大丈夫だよ、そんなに怖がらないで」
 中村に指を絡められ、亜弓は震えた。
「嬉しいよ、僕は」
「中村さ……」
「感じてる? そうだよね。僕のこと好きだと思ってくれてる」
 亜弓の顔を覆った手を外させ、濡れた瞼にそっと口づける。それだけで感じてしまう自分はやはり異常な淫乱なのではないかと、亜弓は不安にかられた。
 中村は優しく亜弓に微笑みかけると、指を唾液で湿して亜弓の中に差し入れた。一瞬亜弓の体が硬直して突っ張る。宥めるように中村は亜弓の背に腕を回して抱き締めた。
「大丈夫。力抜いて」
 囁きは、もはや亜弓の体には毒だった。内側を攪拌されて、堪えきれない涙が堰を切って流れ出てきた目を中村の肩に押し付け、その首に縋りついた。必死で頭を振る。
「あっ……、もう、それはいいっ…から、お願いっ……!」
 自分を遂情へ押し流す波に攫われそうで、亜弓は中村の手を取った。その手はしっかりと握り返され、ふと離れ、中村は身を起こした。
 自分の着衣を全て脱ぎ捨て、亜弓の服も全て剥ぎ取る。そうして亜弓の膝を割り、熱く鼓動の高まった胸を合わせた。
「亜弓…」
「あっ――」
 痛みのない挿入に驚き、思わず高く喘いだ。自分の躰の中で、中村がこんなにも圧倒的な存在を持つのだということを、初めて知る。そして、自分のこんなにも激しい熱情を引き出してくれるのだということを。
「んっ、あ…中村さん、中村さん…っ」
 半ば悲鳴のように叫びながら、中村の背中にしがみついて爪を立てる。
 なんて乱れ方をしてるんだ、とどこかで理性的な自分が叱責する。けれどそれに耳を傾けてはいられなかった。身の内に男を受け入れ、こんなに狂おしく激しい快感を得られるのは初めてだったのだ。
 やがて朦朧としていく意識の中で、亜弓はぼんやりと考えた。求められて抱かれるのと求め合って抱かれるのとでは、こんなにも違うものなのか、と。中村から誘われるたびに苦痛と辛さを感じていた頃が嘘のように思い返される。
「いってもいいよ……」
 言われ、素直に自分を解放する。痙攣する体を支えられながら、そんなにも他人を近くに感じることのできる幸福を思った。



「ほんとに亜弓も行くの?」
 そう聞かれ、亜弓は不満げな声を上げる。
「なんで俺が行っちゃダメなんですか。3人でって言ってるのに」
 秀明のバイトの休みと、中村と亜弓の早番がやっとかち合った日の晩、約束通り3人は待ち合わせをして飲みに行くことにした。だがいつまでもぐずっているのがこの中村である。
「だってさ。いやだよ、自分の恋人を横恋慕してる奴に会わせるのは」
 『恋人』という部分に顔を赤くして、亜弓はソファに座ったままの中村にすり寄った。
「俺、秀明と浮気なんかしませんって。中村さん一人でも大変なのに、この上他の男相手にできるほど、俺若くもないし」
 そんなことを言う亜弓の額を、ペシと中村がはたく。
「なにお下品言ってるの」
「だってほんとだもん。俺2月で31ですよ。しばらく中村さんより2つも年上なんですよ」
 もうすぐ誕生日を迎える恋人の顔を、中村はげんなりと見つめる。
「年上……だったね、そういえば。ダメだ、きみのその成長し損ねた顔見てるとよく忘れるんだよ、それを」
「…中村さん。ソレさすがに失礼です」
「あー悪かったね、誕生日には何か買ってあげるから考えておいで。じゃあそろそろ出ようか」
 壁の時計を見上げて、観念したように中村は亜弓を連れて立ち上がった。
 中村の豪華な広いマンションを出ると、年末の近づいた外気は、今月に入って急に冷たくなっていた。腕を抱えた亜弓の肩を中村が抱く。
「大丈夫?」
「あ、平気です」
 ちょっとしたことですぐ顔を赤くする亜弓に、中村は幸せそうな微笑を浮かべた。今亜弓が自分から離れていったら、生きていけないなと思う。
「何ですか?」
 見上げた亜弓に、中村は首を振る。
「なんでもないよ。行こう、向こうでそろそろタクシー待ってるはずだから」
「はい」
 体を離して、歩き出す。
 角を曲がったところで、二人を待っていたタクシーが、テールランプを光らせた。


<END>