「大丈夫?車で送ろうか?」
玄関で靴を履きながら背中をさすられて、亜弓は首を振った。
「いいです」
「泊まってけばいいのに」
「いや、そういうわけにも」
「…ここ1ヶ月くらい、泊まっていかないよね。何かあるんじゃないの」
訝しげに、しかしほとんど確信を持って問われて、亜弓はぎくりと頬を強張らせた。こういうときに隠し立てするとためにならないことはよく知っている。懐疑的な中村が1ヶ月も追及しなかったことの方が不思議だというべきか。
「…今、家に人がいて」
亜弓は視線を逸らして口を開いた。
「家族?」
「や、他人」
「同居してるの」
「一時的にですけど」
「いつまで?」
「…わかりませんけど」
「女?」
「男です」
「きみは僕以外の男を部屋に連れ込むの!? 浮気する気か」
「浮気って。そんなんじゃないですよっ」
だいたいいつ自分が中村の恋人になったというのか。浮気も何もないだろう、とは思ったが、そんな火に油を注ぐようなことを言うほど亜弓もバカではない。
「きみがそんなんじゃないと思ってたって、向こうはどうか分からないじゃないか。こんなかわいいきみと一緒に暮らしてたら、その気がなくたって誰でも手ぐらい出るよ!」
「かわいいって…あのねぇ。俺は中村さんより年上ですよ。あと3ヶ月もして2月になれば31なんですよ。だいたいね、誰でもってことがありますか。そこまで人類廃れちゃいませんよ」
そうまで言っても中村は嫉妬を露にした形相で口を挟んでこようとしたが、させず、亜弓は畳み掛けた。
「その前に受け専同士で何ができるって言うんですか!」
中村のバカな杞憂に苛立ち、怒気をはらんだその台詞に、中村はきょとんと目を瞠った。端正な、と評するのがやはり一番適切な面差しが、妙に幼く見える一瞬だ。
「…受け専なの」
「そうですよっ」
反芻されると、口にした言葉の恥ずかしさに頬が赤らむ。
「でも…」
「もう、帰りますよ」
言いながら、亜弓は中村に向かって手を差し出した。亜弓を帰らせまいと中村の手に握られたコートを寄越せと。中村は仕方なくため息をついて、亜弓にそのコートを着せ掛け、くちびるに口づけた。
「…じゃ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
亜弓の首にかかったマフラーを名残惜しげに放して、中村は閉まったドアを見つめていた。
亜弓がマンションに帰ると、合鍵を渡している同居人はまだ帰ってきていなかった。時計はもう日付を変えている。
そういえば昨夜、携帯に呼び出しがかかっていたな、と亜弓は思い出した。出かけているのはその相手と会っているためだろう。
1ヶ月前から亜弓が同居している、それまで住所不定の男は、亜弓より4つ年下の26歳の男娼である。名前は佐野秀明。携帯に連絡が入れば、朝となく夜となく、相手が男であれ女であれ、出かけてゆく。
そんな秀明が亜弓と同居するようになったのは、亜弓のマンションの近くで行き倒れていた際、亜弓に拾われたのがきっかけだった。定住所を持たない秀明は、行き倒れる前までは金持ちの男に飼われていたのだという。そこで一体何があったのか、逃げ出した秀明を道端で拾った時には、栄養失調寸前までいっていた。
そのことについて秀明は話そうとしないが、監禁されて虐待を受けていたのではないかと、亜弓は予測している。そんなひどい扱いを受けても、秀明は男娼をやめる気配がない。亜弓にはひどく不思議だった。
(…秀明は、どうして率先して抱かれようと思えるんだろう)
ふとそんなことを思う。
倒れていた秀明を部屋に運び、医者を呼び、意識が戻ると栄養のある食事をさせ、とりあえず必要最小限の事情を聞いた。その時、秀明は亜弓に身をすり寄せ、媚びるように言ったのだ。
『俺をここに置いてくれるの? でも払える金はないからさ、代わりに抱いてよ』
その台詞を思い出すと、亜弓の胸に名状しがたい感情がこみ上げてくる。苦いような、痛むような。
秀明の申し出を、亜弓はその場ではっきりと断った。まともな生活ができるようになるまでは好きなだけここに住めばいい、その見返りをお前の体に求めたりはしない、と。
それでもまだ、秀明は時々、疑わしげな視線を亜弓に投げかける。人間の裏を知る秀明にとって、亜弓の人の好さは俄かには信じられないものだったのだ。
だから亜弓は、敢えて秀明には素っ気無い態度で接する。いつ亜弓が掌を返すかと身構えているような秀明は、むしろそうした接し方の方が安心しているようにも見えた。
(抱かれるのなんて、いやなくせに)
不快感が胸に広がる。
(なんで売りなんかしてるんだ)
自分を見ているようで苛立ちながら、でもだからこそ亜弓は、秀明を放っておけないのだった。
その時、玄関のドアが開く音がして、秀明が帰ってきた。部屋に入ってきた秀明の顔を見、亜弓は思わず顔を背けそうになる。
「……ただいま」
「もうやめろよ、秀明」
「平気だよ、このくらい」
言いながら、秀明は片手で顔の左半分を覆った。くちびるの端は血を滲ませ、目の下の紫の痣はその色を更に深めていた。
嗜虐趣味の親父だと言っていた、その相手と秀明が会うのはこれで3回目だろうか。初日にはさすがに気落ちしていたが、2回目からはそんな素振りも見せなくなった。
買い手から折檻を受けるというのはよくあることなのだろうか。そんなことを考え、不快感は増す。
「せめて殴らない奴を相手にしろよ」
「平気だってば。殴らせると割増で払ってくれるんだよ」
「…お前、そんなに金が大事か」
「だって俺はそれで食ってんだもん」
「食わせるぐらい俺が食わせてやるよ。だからもうやめろ」
「うるさいな。俺は自分で稼いで自分で食ってんだろ。今はここ出る資金も必要なんだよ。なんで他人に養われなきゃなんないのさ」
秀明はダイニングのテーブルの上に、ポケットから出した二つ折りの万札の束を放り出して、寝室に入っていった。
「秀明」
亜弓が追って暗い寝室に入ると、秀明は亜弓が運び込んだソファベッドにうつぶせに身を投げ出していた。
薄明るいルームライトをつけ、亜弓は身をかがめて秀明と視線を合わせた。
「秀明……なんでおまえ、売りなんかするの」
――以前にも同じことを訊かれた。その時は曖昧に受け流した気がする。
秀明は、さすがにその面の皮一枚を商売道具にしているだけあって造りの良い顔に、苦い泣きそうな笑みを浮かべた。
「――似合ってるだろ」
そう言ったきり、壁の方を向いてしまう。
似合わねぇよ、全然。
亜弓は小さくため息を落とした。