それは確かに、幼い頃の柴崎亜弓は、女の子とよく間違われていた。
女の子が欲しかったという母親のつけたアユミなどという紛らわしい名前、与えられた女物の洋服。しかし性別を間違われることの理由にはそれ以上に、亜弓の外見的な要因も大きかった。
小柄で華奢な体つき、日に焼けない白い肌、大きな目に長い睫毛、赤く薄い小ぶりのくちびる。
学ランを着るようになってさえ何故だかどこかそれが滑稽で、男装の令嬢などとからかわれたこともある。
しかしそれも、中学までの話である。
高校に入れば、さすがに亜弓も人並みに成長期を迎え、縦にばかり伸びて肉付きは追いつかなかったものの、声だって幾分低くなった。女性的な容姿はなかなかどうにもならないようだが、少なくとも外見から即女性と断定されるようなことはなくなったのだ。
なのに今、30歳という歳になってまで、面の皮一枚に男を惹きつけてしまう自分はおかしい。
服を半分脱がされ、その露になった肌に愛撫のくちびるを落とされながら、ぼんやりと亜弓は思った。
(それともやっぱり、言い寄ってくるこの人の方が間違ってるのかな…)
「…亜弓?」
自分の肌に耽溺していた男に顔を覗き込まれて、亜弓は視線を落として焦点を合わせた。
「どうしたの、上の空で。気乗りしない?」
訊かれ、こんなことに気乗りしたことなどない、という台詞が頭に浮かんだが、それを言うのはひどく危険なように思われた。
「いや…なんでもないです」
亜弓が薬剤師として勤める総合病院の、若手敏腕外科医である中村一臣は、院長の一人息子という立場もあってか、一つ年上の亜弓に対していささか倨傲な、もとい保護者的な態度を取る。
看護婦たちの憧れの的である中村は、その端正で優しげな顔を興奮に少し赤らめて綻ばせた。
「僕は心配だよ、亜弓はいつもそんな風にうすらぼんやりしてるから」
失礼な物言いに、亜弓は心外だ、と黙って眉を顰めた。
もともと何事にも機敏な性格というわけではないが、いつもこんなに上の空でいるわけでもない。男とセックスしているなどと、亜弓には直視したくない現実を強いておいて、そんなことをいうのはお門違いではないかと思う。
しかし亜弓は敢えて何も言わない。
「嘘だよ。拗ねるんじゃないの、そんな顔しないで。ね?」
中村は機嫌を取るように亜弓の細い頤を指でなぞり、髪を引いて口を合わせてきた。亜弓は黙っておとなしく受け入れるが、背には静かに嫌悪が走る。
中村と関係を持って半年になるが、毎週のようにこうして中村の部屋に連れ込まれていても、舌を入れられることも肌をまさぐられることも、もちろん体を繋ぐことも、亜弓には馴染むことのできない行為だった。
ならば何故そういう関係になったかというと、早い話が、強姦から始まったのである。しかも悪質な。
最初は、中村の当直の日の夜中、宿直室に呼ばれ、そこで和やかに会話を交わしながら飲んだコーヒーの中に、薬を盛られた。
歳が近いこともあって、亜弓が28の時に職場を移って以来、友人として個人的に親しくしていた相手でもあったので、中村の自分を見る眼に気づくことができなかったのだ。
目が醒めたのも、体内に侵入された際の痛みによるものだったので、抵抗の余地などなかった。しかもその時には既に素っ裸に剥かれ、足を割られ、身動きできない状態だったのだ。
睡眠薬の効果は抜けきっておらず、夜の病院の宿直室で泣き喚いて助けを求めるわけにもいかず、結局亜弓は朦朧としたまま、すすり泣きをかみ殺しながら犯されたのだった。
次回から中村は、半ば脅迫するように亜弓を自宅に連れ込んだ。亜弓の首は、次期院長である中村に握られていた。それを理解していたから亜弓は、無言で中村の車に乗り込んだ。何の抵抗も示さない亜弓に、中村も脅迫まがいの言葉は使わなくなった。
優しい声で、言葉で、誘われるたび、亜弓は死にたくなった。
――抱きたいなら抱けばいい。
力なく呟き目を伏せ、亜弓はおとなしく中村の閨に侍った。
「亜弓は、ほんとに色が白いね」
肌を嬲りながら、中村が感心して言う。
「俺、日に焼けても黒くならないんです。一時的に赤くなって、すぐ元に戻る体質で」
「ふうん。あのね亜弓、そういう人は肌があんまり強くないんだ。日焼けして色が黒くなるのは、肌を守るためにメラニンが生成されるせいだからね。皮膚癌とか気をつけなよ。僕はきみのこんな綺麗な体にメスを入れるなんていやだからね」
中村は亜弓の体を綺麗だというが、30男にその形容はそぐわない気がした。
この関係が和姦の強要から始まったことを胸に返して痛みながら、亜弓は貧相な裸体を白いシーツの上に投げ出した。のしかかられうつぶせにされて、血の気が引きひどく青ざめた頬の片方を枕に埋める。
これから中村の雄を受け入れさせられる場所に冷たいぬるみを塗り込まれ、屈辱のあまりにくちびるを噛んだ。
中村が亜弓の背に胸を合わせてくる。体が恐怖に竦むが、抵抗はとっくに放棄していた。
「う……」
喉の奥から、苦痛を殺すような掠れたうめきが漏れる。
「亜弓、力を入れないで」
囁いた中村が痛みに萎えた亜弓を握り、性感を押し付ける。もう片方の手が、噛み締めすぎたくちびるを開かせ、指が口腔を犯す。シーツを握った手に力がこもり、近づいたり遠ざかったりする痛みに喘ぎ、声にならない悲鳴を上げた。
中村の下で無意識に逃れようとのたうちながら、亜弓は泣いた。いつもと同じ絶望に殺される。
白かった亜弓のキャンバスは、少年期の幸福の終わりとともに滅茶苦茶に汚された。長い年月をかけ、それは真っ黒に塗りつぶすという形でようやく体裁を整えられたのに、こうして今、突き立てられた鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれてゆく。
防波堤に打ち上げられた魚のように声もなく浅い呼吸を繰り返しながら、昏い絶望に囚われて亜弓は身動きできなくなる。
自分が男に抱かれている事実を否定しようなどと、そんなことは初めの数回で諦めた。
所詮自分はこうして男の力に屈して這わされるのが似合いなのだと、黙って瞼を伏せた。
シーツを握り込んでいた指を開き、亜弓は虚ろにてのひらを見つめる。
この手から、一体どれほどのものがこぼれ落ちていったのだろう。あるいは最初から何も得てなどいなかったのだろうか。
「んあっ…!」
ひどく揺すぶられて、高く喘いで枕に縋った。
「…亜弓」
低く呼びかけながら肌を探る中村の手の優しさが気に入らず、振り払うように身を捩る。そうして、一方的に与えられた性感が肉体の表面をすべり、全ての痛みを消してくれる瞬間をひたすらに待つ。
結局最後は、亜弓にできるのはそれだけなのだ。