その後2週間ほど、亜弓と中村の仲は非常にぎこちなかった。
この間も秀明は売りを続けていたし、暴力を受けて帰ってくることも間々あった。
中村は、話せばちゃんと聞いてくれる。けれどそれに甘えてはいけないことも、亜弓は分かっていた。中村にとって面白い話題などではない。分かっているから、話さないようにした。
しかし話すことなく整理のつかない考えは、日々亜弓の思考を支配していく。頭の中が秀明のことでいっぱいなっている今、中村との会話に違う話題を出したところで長くは続かない。そうこうしているうちに、だんだん中村の前での亜弓の口数は減っていった。
中村は中村で、亜弓の言いたいことは分かっている。でもそんな話を聞きたいのではない。次第に二人の間の沈黙は増え、その重苦しい沈黙がいやで、亜弓は中村に会うのを避けるようになり、しばらく顔も合わせていない。
亜弓はため息をついた。
(秀明はまだ変態野郎と会ってるみたいだし、中村さんは機嫌悪いし…ままならないな…。やっぱり秀明とは関わるべきじゃなかったのかな。そうすれば……)
――中村さんと一緒にいられたのに。
そう考えて、亜弓はハッと首を振った。
(何!? 何考えてんの俺!? べつに俺、中村さんの恋人でもないし、中村さんのこと好きでもないしっ)
そして肩を落とし、またため息をつく。それが妙に甘い。
(べつに、俺――)
もう一度首を振って、浮かんだ妙な考えを払拭した。
そこには触れてはいけないような気がする。それに触れることは、自分がどうにかなってしまうような危険をはらんでいる気がする。
亜弓はロッカーに白衣を掛け、コートを取り出して肩に引っ掛けた。
「お先ー、お疲れさまでーす」
同僚に声を掛け、同じ挨拶を受けて病院を出る。同じ挨拶を受けて病院を出る。髪をさらう冬の冷たい風に腕を抱き、背中を丸めて帰路についた。
バスと電車を乗り継いで部屋に帰ると、珍しく秀明がいた。
「お帰り」
「ただいま。今日は出かけないのか?」
「誰もお呼びじゃないみたいで」
秀明は鳴らない携帯を掲げてみせた。
実際、秀明が家にいることは少ない。買い物に出ていたり、その手の飲み屋に出入りしていたり、そうでなければ寝室で眠っている。秀明の存在そのものは至って無害なのである。
ダイニングテーブルで雑誌を読んでいる秀明の手元からコーヒーを横取りしたところで、電話が鳴った。
「はい、柴崎です」
受話器を耳に当てると、やわらかな女性の声が流れ出した。
『亜弓さん?』
「あ、お義母さん」
『今までお仕事だったの? さっきも電話したんだけれど』
秀明は家の電話を決して取らない。
「はい。今帰ったとこで」
『そう。大変ねぇ、お疲れ様』
「ええと…お義父さんに何かありましたか」
亜弓は、つい先日実家で高熱を発して倒れ、地元の病院に担ぎ込まれた義父の話を持ち出した。
『ああ、そうそう。あのね、お父さん、軽い肺炎ですって。もう症状はなくなってきてるからって、今日退院したのよ』
「ああ、そうか、良かった。心配してたんだよ、お義父さんに何かあったら、お義母さん一人じゃ大変だろうし」
70を間近に控えた義母は、品よく声を抑えて笑った。
『大丈夫よ。もしそうなっても、亜弓さんが立派に自立してくれてるから、お母さんちっとも心配じゃないもの。本当に偉いわ、ちゃんと薬剤師さんになって、そんな大きな病院に勤めてるんですもの。お父さんもお母さんも安心よ、嬉しいわ』
褒められたことを素直に喜べず、痛みとともに亜弓は苦い笑いをこぼした。
――重い。苦しい。苦しい。
『まあ、またそのうち顔見せに帰っていらっしゃいな。じゃあね。疲れてるんでしょうから、ゆっくりおやすみなさいね』
「はい」
元気かどうかを確認するためだったらしい、短い電話を切って、呆然と思う。
あの義母が、義父がいなければ。あの夫婦に引き取られていなければ。自分はどうしていただろう。
中村から受けた最初の強姦は免れられなかったかもしれないが、それ以後の誘いを、自分はどうしていただろう。従わなければ解雇すると脅され、口外することもできず、ただ受け入れるしかできなかったけれど。
もしかして、拒めていたのではないだろうか。万一それで本当に解雇されていたとしても、以前勤めていて中村総合病院へ紹介してくれた、あの小さな街の薬局へ戻るなり、他の道を考えることもできたのではないだろうか。
あの人たちの期待に応え、それに報いることが、自分に唯一できる感謝の表明のつもりだった。そしてあの人たちが自分を引き取ってくれたことを感謝こそすれ、後悔などしたこともなかったが、今は時々、他の選択を考えてしまうことがある。
そしてそんな自分の不義理が、憎い。
と、今度はインターホンが鳴った。こんな時間に誰だろうと思いながら、玄関に向かう。
「どちら様…」
言いながら、ドアを細く開け、声が止まった。
そこに、中村が立っていた。
「話があるんだ」
感情の見えにくい顔で、中村は言った。
「上がっていい?」
亜弓は少しためらって、ドアチェーンを外した。
上がり込んだ中村と、ダイニングの秀明の目が合う。中村はふっと目を眇めると、奥の寝室の方へ入っていった。亜弓はそれに続き、ドアを閉めた。
「あれが噂の売り男26歳?」
中村は寝室に入れられたソファベッドを一瞥していった。
「さすがにいい顔してるね。きみが彼にかかりっきりになるのも頷ける」
「…どういう意味ですか」
険を含んだ声で問うと、中村は口元に優しげな笑みを浮かべ、亜弓をそっと抱き寄せた。そのままベッドへ押し倒そうとする。
「何してんですか、やめてくださいよ、隣に人がいるのにっ」
囁きの音量での抗議を、中村は無視した。
「かわいい声を聞かせてやれよ。隣の浮気相手にさ。きみは僕のものなんだって、見せつけてやればいい」
痩せぎすな見た目からは想像の及ばない力で押さえ込まれ、亜弓は慌てて抵抗した。
「なんで抵抗するんだよ」
低い声が威嚇する。
「だって…隣に人が」
「なんでいまさら抵抗するんだ、いつも抵抗なんかしないじゃないか。なんであいつに知られたくないんだよ、なんであいつがいるときだけ…」
「やめ…痛いですって」
「僕以外の男を見る亜弓が悪いんだろう!?」
一方的に責任を負わせるようなことを言われ、さすがに亜弓の頭も血を上せた。
「俺には中村さんからそんなこと言われる筋合いないですよ! 浮気なんて言われる仲じゃないはずだ」
それは、言ってはならないと思ってきた言葉だった。
「中村さんが職を盾に俺を脅迫して、俺は望み通り抱かれてやってるじゃないですか。それ以上を望まれても、俺には応えられませんよ」
いつになくきつい亜弓の双眸を冷ややかに見つめて、中村は亜弓の肩を掴んだ手に力をこめた。そのまま服を脱がそうとするのに、ようやく亜弓は声を荒げた。けれど中村の腕は動じない。
「痛っ…何すんですか、やめてください!」
抗いながら、中村の手の意図を感じて恐怖に竦む。
「いやっ、いやだ…秀明! 秀明!!」
叫ぶと、扉の向こうでガタンと椅子が鳴った。
しかし、中村の振り上げた平手が亜弓の頬に炸裂するまでには間に合わなくて。
ひどい音が部屋に響いたのと同時に、ドアは開いた。