Rainy days and Mondays -05-


「どうしたの石田くん、ぼんやりして」
 橋本に声を掛けられて、窓を叩く雨を見上げながら処方箋を握ったまま固まっていた石田は顔を上げた。
 橋本は30を少し越えた女性なのだが、薬局ではお局様的存在である。
「柴崎さんじゃないんだから、しっかりしてくださいよ」
 そう言うだけあって、橋本は柴崎に対しては特に厳しい。だがそれは悪意を込めたものではなく、どこか姉として頼りない弟を叱咤激励しているように見える。
「橋本さぁん、それ柴崎さんが聞いたら怒りますよぉ」
 薬局で最年少の雪村麻子が、カウンターから振り返ってオレンジのくちびるで笑った。
「あれ。そういえば柴崎さんどこ行きはったんですか」
「あら、まだ戻ってない? さっき倉庫にファックスの用紙取りに行ってもらうよう頼んだんだけど。もー、あの人はどこで油売ってるのかしら」
「俺見てきましょか。2階ですよね」
「そうそう。お願いね」
 薬局を出て、階段を上がる。
 2階の倉庫は少し奥まったところにあり、あまり入る人もいない。とはいえ、そのドアを開けたとたん、石田の目は据わった。
「何してんねん、こんなとこで」
 そこには、壁際で口付けを交わす中村と亜弓の姿があった。壁に押し付けられていた亜弓が、石田の声に気づいて中村の肩を押しのける。顔は真っ赤だ。
「無粋だね。お邪魔だよ、向こう行ってなさい」
 臆面もなく返したのは中村だ。なんだかどっと疲れた気分で石田は息をつく。
「他の誰かに見られたらどないすんねや、色情魔が。家でやりや」
 元恋人の隔てのなさで言葉を交わす。
「家では家でやってるもんね、亜弓。いいじゃない、いつも一緒にいられるわけじゃないんだから、たまに職場で二人きりになれたときくらい」
「何言うてんねん。そう言うたかて始終ベッタリされたらこっちがかなわんわ。ええ歳こいて恥ずかしい。柴崎さんもあきませんて、こんな奴にこんなとこ連れ込まれたら。そのうち午後立たれへんようにされますよ」
 言ってからふと思い出す。数日前、昼休憩から戻ったとたんにデスクでぐったりとしていた亜弓の姿を。
(この人らは……)
 なんだかもう何も言う気がしなくなって、部屋から出る間際に、
「橋本さんが怒ってはりますよ」
 とだけ告げる。すると亜弓が慌てて倉庫から出てきた。不服そうな中村を残して、二人は薬局に戻る。そして案の定亜弓は橋本から叱られた。なぜなら頼まれたものを持っていなかったからだ。
「なんか、柴崎さんて中村先生が絡むとまるで子どもですねぇ」
 言ってやると、亜弓はうるさいな、と悪態をつきながら赤面した。
 そういえば、なぜこの人には中村だったのだろうか、と考える。
 亜弓がこの病院に移ってきたとき、石田は亜弓のことを、恋愛対象としてよりも人間的な憧れを持って見ていた。年上ということもあったし、薬剤師としては後輩の石田に接してくれる亜弓は優しかった。あまり感情によるバリエーションの多くない表情は落ち着いて大人びた印象を与えた。しかしその顔は歳相応とはとても言えないほど若く、そして繊細な造りをしている。綺麗な人だな、と思った。
 ただ、接する時間が長くなるにつれ、石田は疑問を抱くようになった。亜弓の完璧さがどこか作り物めいた、不自然なものに見えてきたのだ。
 仕事に向かう姿勢は常に真面目で、失敗もない。人付き合いもそつなくこなす。あまりにもきちんとしたその様子が、まるでそうすることによって自分を必死に守っているように見えた。きちんとしていなければならない、という緊張が、ある意味で強迫観念のように付きまとっているように見えた。
 そのことに気づいてしまうと、石田は亜弓から、悲壮さしか感じられなくなった。
 守ってあげたい。
 そう思ったのが恋の始まりだった。それが無理なら、せめて傍にいるだけでも。
 だが結局、その相手に亜弓は石田ではなく中村を選んだ。亜弓と中村が特別な関係になったことに、石田はすぐに気がついた。そしてそのことが腑に落ちなかった。中村は亜弓を守れるタイプではない。なぜそんな人間を亜弓は選んだのだろう。
 今は石田は、おそらく亜弓は中村の前では弱さを晒すことができるのだろうと理解している。亜弓は自分を守ってほしいのではなく、完璧な自分を保持したいのではなく、表面の殻を破って内側に触れてくれる存在がほしかったのだろう。
 だから自分ではダメだったのだ。石田には、亜弓の表層を壊すことなどできなかった。大事に大事に、ただ隣に寄り添っていたかったのだ。
『亜弓には、俺じゃダメなんだ』
 ふと、秀明もそんなことを言っていたのを思い出した。いつだったのだろう。秀明の部屋で飲んでいたときだろうか。
 ――あの時、一体自分たちはどんな話をしていたのだろう。
 秀明は石田が泣いていたと言った。それを慰めるために抱いたのだと。自分から抱いてもいいと言ったのだと。一体どんな会話をしていたら、そんな展開になるのだろうか。
 何かを守ろうとして石田が苦しんでいるように見えた――それを壊してやろうと思ったのだと秀明は言った。
 亜弓にとっての中村が、石田にとっての秀明だとでもいうのか。
「佐野……」
 抱かれた翌日に口づけられた感触は、まだ覚えている。痛みもまだ残っている。
 けれど彼自身のことを何も知らない。交わされた会話を、語られた彼の言葉を、石田は覚えていない。
『軽蔑した?』
 過去を明かすことをためらった後、浮かべた微かな笑みばかりが脳裏にちらつく。正直に言ってしまうなら、気になる。とても。
 考えているうちに、秀明のことが心配になってきた。
 あんなつらそうな顔をしていた彼は、今頃思い悩んだりしていないだろうか。

 窓の外は降り続く雨。それが秀明の涙にならなければいいと願って。