翌日、昼近い時間になって、和司はキッチンの火を止め、そっと寝室のドアを開けて中を覗いた。
「葉月ー。大丈夫か?」
その声に、まだベッドで横たわっていた志生が頭だけ起こす。
「うん……大丈夫」
「熱は?」
「ん、微熱くらい」
「そーか……ごめんなぁ」
ベッドに腰掛けた和司がしゅんとした様子で額に手を当ててくるのに、志生はおかしそうに笑った。
「謝らないでよ、平気だって。知恵熱みたいなもんだから。ちょっと緊張してただけ」
そうは言っても、今朝目覚めてからずっとぐったりしてしんどそうなのは明らかに自分のせいで、和司は申し訳なく白い額を撫でる。
無理はさせまいと思っていたのに、初めて抱いた志生の――男の体は存外に具合がよく、途中から和司は自制を忘れて完全に快楽に溺れてしまっていた。
蕩けた顔で喘いでいた志生もただよがっているのだと思っていたが、もしかしたら実は痛かったり苦しかったりしたのかもしれない。二度射精してほとんど気絶するみたいに眠り込んで、目覚めた志生は起き上がることができなかった。
「いやでも、どう考えても俺が無理させたせいだろ」
和司の方は反省しきりだが、それを見上げて、志生はもそもそと鼻まで布団を引き上げる。
「……すぐ慣れるよ。回数こなせば、たぶん」
気恥ずかしそうに目を泳がせながらそんなことを言われ、放たれた矢のハート型のやじりは、和司の心臓と下半身を直撃した。
「おっまえ……」
昨日まで生娘同然だったというのに、そのおぼこさを残したまま慣れない色を仕掛けてこようとするのだからたちが悪い。じゃあ回数をこなそうではないかと体は逸るのに、これでは手も足も出せないではないか。
「……熱が下がったら覚悟しとけよ」
恨みを込めた低く剣呑な声にも、志生の目元は笑んで細まる。
「うん、しとく」
ああもうだめだ、このままこの部屋にいては、いろんな我慢で奥歯がすり減って心拍やら血圧やらが異常上昇して死んでしまう。
心の中でゼエハアと荒い呼吸をしていたら、ふと寝室の外にインターホンの音が響いた。
「? 誰か来たな」
和司が腰を上げようとすると、志生が思い出したように「あ」と声を上げる。
「たぶん先生だ。昨日持ってき忘れた画材、今日届けてくれるって言ってたんだった」
「……吉澤か」
知らず低い声が出た。が、すわ敵襲かと気色ばむ気持ちもありながら、そこには昨日はなかった余裕みたいなものがある。一度寝たくらいで現金なものだ。
けれどふと考えて、和司はその余裕を一旦横に置くことにした。
もう一度インターホンが鳴り、和司は立ち上がる。
「物を受け取るだけか?」
「あ、うん」
「じゃあ寝とけ」
そう言って和司は寝室を出て、しっかりと扉を閉める。そして玄関でサンダルを履くと、玄関ドアを開けてそのまま外に出た。
「お? よう、彼氏」
わざわざ外廊下まで出てきた和司に意外そうな顔をして、吉澤は紙袋を掲げて笑った。
「葉月は?」
「体調不良で寝てる。俺が代わりに受け取る。画材だろ」
「体調不良? 風邪か? あいつ、描きだすと寝食削るからなぁ。無理せず大事にしろって伝えてくれ」
ほい、と和司の手に紙袋を託けて、じゃあなと手を上げて吉澤は帰ろうとする。それを、和司は「おい」と呼び止めた。
「んぁ?」
無防備に振り返った吉澤と、和司は正面から向き合う。
「……悪いけど、まじで、葉月のことは諦めてくれ」
そう言って頭を下げた和司を一瞬驚いた表情で見つめたあと、吉澤は眉を下げて吹き出した。
「はぁ? 宮村おまえなに言ってんの」
さもおかしげに笑う吉澤に、和司は付き合わない。真剣な表情のまま、顔を上げて吉澤の目を見据えた。
「あんたが惚れてるのは、あいつの才能だけじゃないだろ」
「……馬鹿なこと言ってんじゃ、」
「高校の時から。あの頃は教師と生徒って立場が邪魔しただけで、それさえなきゃ、あんたはあいつに本気だっただろ」
「……」
馬鹿馬鹿しいと一笑に付そうとしていた吉澤の表情が、和司の指摘にわずかに強張る。何も言わずとも、和司にはそれが答えだと知れる。
「……あんたが葉月をどう思ってようと、俺がこの場を譲る気は一ミリもねえけど」
けれど、その敏さと大人げは別問題らしい。
「それでも、あいつを特別な目で見てるやつが近くにいるのはやなんだよ。とにかくやなの」
深刻な顔をしている割に幼稚な感情論をぶつけてくる和司が意外で、否定も忘れて吉澤は呆気にとられてしまった。
「……特にあんたは、葉月にとっては恩人だから」
しまいには拗ねた調子でそんなことを言う。吉澤が志生に恩を着せて、代償を迫るかもしれないとでも思って警戒しているのだろうか。どんだけ過保護な盲目彼氏だ。
恋愛脳な発想に、笑いをこらえきれず吉澤はサンダル履きの和司の脛を蹴った。
「いでっ」
「ガキか!」
思い切り和司の幼さを笑い飛ばしながら、けれど吉澤の顔には安堵が浮かぶ。
「……なんだ、おまえそんなキャラだったかよ。高校ん時からスカしたやつだったから、あいつ遊ばれて捨てられんじゃねえかって要らん心配してたわ」
「はあ? んなわけねえし」
「ふは、よーくわかったよおまえの気持ちは。だったらおまえも葉月のこと信用してやれよ。俺がいようといまいと、関係ねえから」
腕組みをして、吉澤は笑んだまま目を伏せた。
「恩人だろうと、あいつは俺に靡いたりしないよ。十年もおまえしか見てないんだぞ。あんな頑固者、そうそういねえわ」
諦めなんて、言われなくともとっくについている。吉澤は、二人の出会いから見てきたのだから。
「……ったく。ほら、もう戻ってやれよ。葉月寝込んでんだろ」
しっし、と追い払うように手を振って、今度こそ吉澤は帰っていった。
その背中を見送ってから、部屋に入って寝室に戻ると、待っていた志生が目を瞬いた。
「先生だった?」
「ああ。画材受け取った。これ」
「ありがと。……なんか話してた? 長かったね」
「ん、いや、別に普通に、世間話」
「……ふぅん」
納得したのかしていないのか、よくわからない生返事をする志生。しかしそれ以上踏み込んでほしい話題でもないので、和司はただ、黙って志生の額を撫でた。おとなしく撫でられているその額はまだ少し熱い。
「腹、減ってないか。トマトリゾットできてるけど、昼飯どうだ」
昼食と聞いて、志生がぱっと目を輝かせる。
「食べる! 宮村のリゾット、超好き」
初めてこの家で料理をしてから、リゾットはいろんな種類のものを出してやっていて、それらの全てを志生は好んで平らげていた。恋人の胃袋掌握については、和司は完璧に成功している。
「起き上がれるか?」
億劫そうに体を起こす志生に手を貸すと、照れたようにはにかんで、「ありがとう」と笑う。
高二の初夏、初めて顔を会わせた美術室で警戒心丸出しに眉を寄せていた志生が、まさか自分の腕の中でこんなに柔らかい表情を見せるようになるなんて、想像もしなかった。
でも。
(それは俺も同じか)
志生の手を引いてキッチンに向かいながら、自分の顔が随分と緩んでいるのには自覚があって、こっぱずかしいようでいて、それも悪くないと思っている自分がいる。
(……だいたい、俺が野郎一人にこんなに執着して、諦めた店持つ夢も再燃させるなんて。こんな熱、どこにあったんだか)
知らなかった自分が、志生の前でひょっこり顔を出す。描く対象の本質を見抜くあの目に、まるで引き出されるみたいに。
この先もそんなふうに、日常の中の変化に時々驚きながら過ごしていくんだろうか。こいつの隣で。
そんなことを思いながら、和司は白い器を手に取った。
<END>