secret color -18-


 三度の絶頂の後、精根尽き果ててうとうとしている志生を撫でて、風呂入って洗濯してくると言って和司はソファーを降りていった。
 その後ふと目覚めると、明かりを消した部屋には白々と朝日が射し込んできていて、志生の隣に仰向けになった和司は携帯をいじっているようだった。
 画面をそっと覗くと、それは物件情報サイトのようで。
「……やっぱり部屋出てくの?」
 口出しすべきではないと思いつつ、つい志生は訊いてしまった。
「あ? 悪い、起こしたか」
「別に俺はいいのに、ずっとここにいてくれても」
 せっかく恋人になれたのだから、出ていく必要はないではないか。そんな不満が言外に滲んでしまう。
 拗ねた志生に向き合うように、和司は寝返りを打った。
「……実は、ずっと考えてたことがあったんだ。さなえと別れて、もう俺には縁がないかって諦めてたとこがあったんだけど。おまえが一緒にいてくれるなら、もう一度向かってみようかと思って」
 そう言って和司が示した画面に映るのは、そのサイトで和司がブックマークしていたいくつかの物件で、順に見せられた全てが、店舗兼住居として使えるものだった。
「これ……!」
「……うん。小さくてもいいから、自分の店を開きたいと思って」
 和司の指は、リノベーション例の画像が添えられた古めの売り物件を表示させる。
「ローンにはなるけど、頭金はかなり出せるし。俺の焼いたパンと、それに合うカフェメニューで。最初思ってた割烹とはだいぶ違うけど……俺の作ったものをたくさんの人に食べてもらいたいって夢は叶うなって思ってさ」
「すごい……うん、叶うよ、宮村」
 一時は飲食業そのものにも関心を失ったように見えた和司が、そんな夢を自分に語ってくれることが嬉しくて、志生は胸がいっぱいになった。
「俺も、手伝いたいよ、宮村の店。雑貨店だけど、内外装やロゴのデザインやった経験もあるんだ。力になれると思う。あ、あと料理はできないけど、ホールで接客とかなら少しは! バイトで雇ってよ!」
 一足飛びに意気込む志生を少し困ったように笑って、和司はこつんと額を合わせた。
「手伝ってくれるなら、頼みたいことがある」
「! うん、なになに?」
「絵を、描いてくれ」
「……絵?」
 きょとんと聞き返す志生に、和司は頷く。
「俺の店を飾る絵を、おまえに描いてほしい。おまえの絵以外に、俺の店に色はいらない」
「宮村……」
 想定していなかった依頼に、心細く和司を呼ぶ声が弱る。
 いいの、俺の絵で。また俺の絵が、宮村を不要に傷つけたりはしない? そんなものを傍に置くことに、抵抗はない?
 問いが喉に詰まって視線が落ちた志生の髪に、和司の手が触れる。覗き込むように、落ちた視線を掬い上げた。
「おまえが、俺にとっての唯一の色だ」
 言われた言葉に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えて、志生は目を瞠った。
 好きだとか、大事だとか、他のどんな愛の言葉よりも、自分が和司にとって特別だと言っているようで。
「……泣くなよ、葉月」
 仕方ないな、と言うように抱き締めてきた和司に、「無茶言うな」と、志生は悪態をつきながらも強くしがみついた。

  *

 ――一年後。
 和司の友人や親族から新規開店を祝うたくさんの花が届き、その色や種類から配置を一生懸命考えながらディスプレイしている志生の後ろで、和司はその姿を飄々と眺めている。
「ちょっと、宮村。あと十五分で開店だよ? のんびりしてて大丈夫?」
「んー? 仕込みはとっくに終わってんぞ。花も適当に置いときゃいいんじゃねえの」
 和司はどうでも良さそうに、最近切った髪の短さにまだ慣れない様子で首をさすった。
「もー、宮村の店じゃん。記念すべき開店日だよ! もっとやる気だして!」
「はいはい。超やる気ー」
「もう!」
 そんな二人のやり取りを、こちらも開店準備を終えた若い男女の従業員がくすくすと笑いながら見ている。
「ダメっすよ葉月さん、店長、葉月さんからかうのが生き甲斐なんすから。逆効果」
「そーそー。そうやって葉月さんとじゃれて、イチャイチャしたいだけですよー」
 ここ半月の大詰めの準備期間を共にした戦力二人は、店長である和司とも、店舗デザイン担当である志生とも、既に気安い仲になっていた。
「ははは、バレてら」
 鷹揚に笑う和司は、彼らに対して志生との関係を隠していない。二人が恋仲であることを、彼らは自然に受け入れてくれている。
 良い職場環境だなと、改めて志生は安堵した。

 あれから、物件をいくつも内覧し、立地と規模の検討を重ねて購入し、内外装のデザイン決めやメニュー開発、工事や手続きや研修やあれやこれや……を乗り越えて迎えた本日。
 基本は和司と従業員二人のシフトで回すことにしている小規模なカフェダイニングだが、今日は土曜で開店初日ということもあり、会社が休みの志生も手伝いに出ていた。
 テーブル席四つとカウンターを備えた店は、築年数はそれなりに経過しているものの、きれいにリノベーションされて、壁は全面白の漆喰、床はダークカラー、食器や家具に至るまでほとんどモノトーンに統一されている。
 シンプルな、悪く言えば殺風景な建屋だが、その壁には所々に小さな花の絵が飾られていて、その空間に彩りを添えている。
 店の名はcolors 。和司が名付けた。
 一度表立って描くことをやめてから、もう他人の目に触れる絵を描くことはないだろうと思っていた志生だったが、店に飾る絵の製作をきっかけに、本格的に創作活動を再開した。吉澤の協力を得ながら、今も絵画展に出品する作品を描いている。
 額に入った壁の絵を眺めながら、まさかこんな日が来るなんて、と志生は感慨深く息をついた。
 十年後の自分達が、恋人関係になって一緒にいて、一緒に和司の夢を実現して、その日を隣で迎えられるなんて。高校の頃には想像もつかなかった、夢みたいな未来がここにある。
 志生の右耳も、和司の色覚も、あの頃から変わってはいないのに、取り巻く全てが変わってしまったみたいだ。もちろん良い方に。
 離れていた期間は長かったけれど、その時間も全部無駄ではなかったと思える。ここへ至るために必要な道程だった。
 そしてまだ、その道はこの先へも続いている。
「葉月」
 少しぼんやりしていたところを、和司に呼び掛けられ、志生は振り返る。すぐ傍に、改まった顔をして和司が立っていた。
「……ありがとな、ここまで」
 顔や態度にこそ出さないけれど、この場にいる誰よりも和司が今日のこの日を待ちわびていたことを、志生はよく知っている。
「今後ともよろしく」
 ビジネスライクに右手を差し出してきた和司の内心がどんなものかは察しがついて、志生は破顔してその手を強く握った。
「泣くなよ宮村!」
「は!? 泣いてねえし!」
 意趣返しのようにからかう志生と、まともに言い返す和司の姿に、外野から笑いが上がる。
「そこー、開店直前にイチャつかないー」
「ほら、そろそろ十一時ですよ。ドア開けますよ!」
 はいはい整列、と年下の従業員に手を叩いて促されて、志生と和司はいそいそと横に並ぶ。そして互いにちらりと目を合わせ、こっそりと微笑み合った。
 十一時、定刻にドアは開かれる。
「いらっしゃいませ!」
 軽やかなドアベルの音と共に、店内には四人の明るい歓迎の声が響いた。


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