固まった地にもまた雨は降る -02-


「待って、柳瀬さん!」
 足早に立ち去る充希を、本気の走りで健が追う。距離がだいぶ近づいて呼び止める声は聞こえているはずなのに、充希は立ち止まる気配もない。
「何か、誤解してるのかもしれないですけど。チカとは今日たまたま店で会っただけで、ほんと、たぶん半年とかそれ以上ぶりで。柳瀬さんとつき合い始めてからは今日まで一度も会ってなかったんですよ」
 弁解は聞こえているのか聞く気がないのか、充希は返事もなく速度を落とそうともしない。頑なな態度に焦れた健は、充希の手首を握って引き留めた。
「柳瀬さん、待ってってば!」
 けれど握られた瞬間、振り向きざまに充希はその手を力任せに振り払った。
「だったら久々の再会を楽しんでくればいいだろ!」
 ようやく健の顔を見た充希は、怒りの形相で声を張る。
 ゲイバー界隈でスーツ姿の男二人が演じる修羅場に、通りすがりの野次馬がひそひそと視線を向けてきた。
「は……はぁ!?」
「頭なんか撫でて……若い子に触って、ヘラヘラとずいぶん楽しそうだったな」
「っへ、ヘラヘラって」
「ああいうのがタイプなんだったら俺は違うだろ。こんなおっさん放っといて、店に戻って可愛がってやれよ」
「~っ!!」
 ひと月ぶりに会えたというのに、人の話は聞かないし店に戻れと言うし、なんでこんなに訳のわからないことを言われなくてはならないのかと、会いたいのを我慢してきた健の頭に血が上る。
 そんなことを言うならもういい、店に戻るから勝手に一人で帰れ、と。
 売り言葉をまともに買おうとした健が、けれど、すんでで買い言葉を飲み込んだ。
 充希のしかめっ面に、涙が浮きそうになっているのに気づいて、すっと頭が冷える。同時に、泣きそうな充希の姿が野次馬の視線に晒されていることにも気がついた。
「……柳瀬さん、こっち」
 充希の表情を隠すように、健は彼の肩を抱いた。腕の中で俯く充希は、手の甲を目元に押し当て、路地裏へ促す健に素直に従ってとぼとぼと歩く。
「……どうしたの、柳瀬さん」
 建物と建物の間の暗がりで、健は充希の顔を覗き込もうとするけれど、完全に顔を覆って俯いてしまった充希は答えない。
 一方的な激昂には納得がいかない部分がありながら、泣かせてしまっては明らかに分が悪く、充希の背中を抱いて健は小さく息をついた。
「ごめん、俺が悪かった。柳瀬さん、俺がチカと一緒に飲んだりするの、やだって言ってたもんね。偶然会ったにしても、ちょっと距離感とか、俺の配慮が足りなかったよね」
 ぽんぽん、と落ち着かせるように背中を軽く叩くと、充希は目元を健の肩に埋めるようにして寄り添ってくる。先に折れた健に対してこれ以上意地を張れなくなったのか、小さくかぶりを振った。
「俺も……ごめん」
「……うん」
「でもやっぱりおまえが悪い」
 しおらしくなったかと思いきや、そこはどうしても曲げられないようで、充希は健の腕を押し退けるように体を離す。赤い目をして怒った顔をしている充希のいとけなさに毒気を抜かれて、健はまだ意地を張り足りないらしい充希の顔を覗き込んだ。
「そんなに怒るところでした?」
 困り顔の健が小首をかしげてくるのに、充希は「だって……」と俯く。
「おまえと会うの、ずっと我慢してて、やっと久しぶりに会えたのに」
「えぇ? 俺、何度も会いに行かせてほしいって言いましたよね?」
「だって、ほんとに忙しくて」
「でも、ちょっと部屋行って顔見て話すくらいさせてくれても良かったでしょう」
「……だって、忙しくて部屋も荒れてたし。クリーニングに出すワイシャツとか、めっちゃ溜めてたし。肌も……寝不足続きで荒れてたし。そんなくたびれたとこ、見られたくなかったし……」
「……」
 ぼそぼそと、予想外に可愛らしい理由を並べた充希は、けれど思い出したように「それなのに!」と語気を強める。
「やっと落ち着いて会えると思ったら、あんな、二徹したってお肌ピカピカ、みたいなのとイチャイチャしてるとこ見せつけられたら、怒りたくもなるだろ! こっちはもう三十とっくに過ぎてんだから!」
 充希の怒りの原因に、ただ健が他の男と会っていたからというだけではなく、それが自分にはない若さを持つ相手で、しかも若くない自分の醜い(と思っているらしい)姿を隠すために会いたいのを我慢していたという背景があったことを理解して、健は天を仰いで長く息を吐き出した。
(……なんだこの人……可愛いが過ぎるだろ……)
 これだけハートのど真ん中を撃ち抜かれてしまっては、もう喧嘩にはならない。健は完全降伏だ。
「柳瀬さん、俺に対して若好きだとかの誤解があるようですけど……。俺は、柳瀬さんの肌が荒れてようが無精髭が生えてようが、もしかしてこの先禿げようが、何も気にしないし、むしろそういうところもさらけ出してほしいって思ってますからね」
 そう言って真正面から見つめてきた健を、充希はややきょとんとした、安堵の顔で見つめ返す。
「え……あ、なんだ……」
「うん?」
「おまえ、老け専だったのか」
「誤解が逆に振れた!!」
 敵わないはずである。しっかり者だと思っていた恋人は、実はどうやらかなりの天然らしかった。


 寄っていこう、と手近なホテルに誘ったのは充希の方だった。
 恥ずかしげに耳を赤くして健の手を引いた充希の表情には欲情が滲んでいて、今夜は呑んだ後に充希を自室へ呼ぼうと考えていた健は、一も二もなく誘いに乗った。
 部屋へ入るなり、二人はキスを深めながら互いの服を脱がせ合い、広い浴室へなだれ込む。頭上からシャワーを流しながらまた抱き合ってキスをすると、互いの固くなった中心がぶつかり合った。
 それに充希の細い指が絡んで、やわやわと擦り上げてくる。健の感じるポイントを熟知した指の動きに、健のものが一回り大きく膨張した。その感触に嬉しそうに目を細める充希の表情が、とてもいやらしい。
「……今日は俺が全部するね」
 充希の後ろに指を這わせながら耳元で囁くと、ぎゅっとしがみついてきた充希が肩口で小さく頷いた。
 シャワーヘッドを取り、手元に水流を当てながら、そっと指先を襞の内側に潜らせる。その感触がいつもよりも狭くてきつく、健は傷つけないよう慎重に解しにかかる。
「今日、すごいきつい。痛くない?」
「ん……大丈夫」
「会ってなかった間、自分でしなかった?」
「だから……マジで忙しくて。前だけで適当に抜くくらいしか……」
「そっか。じゃあ久しぶりに後ろでいっぱい気持ちよくなりましょうね」
「……くっそ、いちいち変態っぽいな」
 忌々しそうに呟きつつも、ローションをたっぷりと纏わせた指が進むにつれて、肩口にくぐもる充希の呼吸が荒くなる。
 内側の強い快感を生む場所をごく弱く撫でながら、一本ずつ指を増やして襞の隙間を拡げ、その間にローションを注ぎ足していく。性経験豊富な充希に対しては過剰なほど馴致に時間をかけるのは、徐々にやわくほどけていく充希の身体が、焦れて健をねだってくるのを待つためだ。
「はー……、あ、おのはらぁ、……もういれて……」
 内側をひくひくと蠕動させて、健の指三本を締め付けながら求めてくる充希は、普段からは想像のできないエロティックさで。固かった蕾もそろそろ十分に綻んできてはいるけれど、健はしばしの引き延ばしを図る。
「ん、もうちょっと……」
「なぁ、もう、指だけでいっちゃうから……」
 けれど体内の疼きに耐えかねた充希は、健に首に吸い付きながら「おねがい」と舌っ足らずに懇願してきて、煽られた健は堪らずに充希の体の前後を返した。
「……仕方ないなぁ」
 そんなことを言いながらも、健の砲身は充希の中に入りたくていきり立っている。
 充希の背を押して浴室の壁に両手をつかせ、腰を突き出す体勢にした健は、両手で肉の薄い双丘を掴み、左右に割り開く。露になった後孔は、赤く充血して期待に口をはくはくと開いていた。
「浅いとこがいい? 奥がいい?」
 その口にぬるぬると屹立の先端を擦り当て、意地悪く健は問う。その返答に羞恥を感じる余裕もないほど切羽詰まった充希は、欲のままに「奥!」と声を上げた。
「ああぁっ!!」
 答えを聞くと同時に健は一気に充希の最奥を穿ち、充希はほとんど悲鳴のように喘いで、胴震いをして前方の壁に向けて精を放った。
「うわ、すご。トコロテン」
「待っ……、いった、もういった」
「うん、気持ちぃね」
「は、あぁあぁぁ……」
 絶頂を越えた充希は自身の体を支えきれず、健の腕に支えられてようよう壁に縋る。その後ろから間断なく突き上げられて、抗議の声は力をなくし、揺れに合わせて喘ぐしかできなくなる。
「す……ご、あ、あぁ……、そこ、そんな、こすったら、あ……また」
 抜ける寸前まで引き出して、そこから内壁を抉るように奥まで突く動きを繰り返すと、今度は充希の腕にざわっと鳥肌が立ち、全身がびくびくっと痙攣する。射精はしていないが、快感が高止まりして、絶頂を繰り返しているような状態らしい。
「あぁ、いい、やば……」
「柳瀬さんの中も、めっちゃ締まって気持ちぃよ」
「っ最悪、もうおまえ、そういう……っ」
「待ってやばい、怒鳴ったらよけい締まって……俺ももう出そ……」
 遂情へ向けてピッチを上げた健が、ずるっと充希の中から抜け出て、その白い背中へ精液を吐き散らす。間歇的に吐出されるぬるい液体の感触、そしてそれを塗り込むように背中を撫でられて、もう立っていられず充希は浴室の床にへたり込んだ。
 まだ体内に余韻を残して鳥肌を立てたままの充希を、しゃがんだ健が覆うように抱き締め、何度もキスをする。
「……っ、なぁ」
 キスと荒い呼吸の合間に、充希が健を呼んだ。
「ん?」
 少し顔を離して見やった充希は、伏し目がちにひどく可愛い顔をしている。戸惑ったような、恥じらったような。
 その彼が、思いきったように瞼を上げた。
「俺も、おまえのこと下の名前で呼んでいいっ?」
 迷って迷って、ようやく口にする勇気を振り絞ったような声。
 そんなに仰々しく許可をとることかと、一瞬笑いそうになって、健はそれを引っ込めた。
 付き合っている相手を下の名前で呼ぶ、ただそれだけのことに、けれど充希は恐らくずいぶん長いこと逡巡していたのだ。
 俺も、と言ったのはきっとチカが「タケルさん」と呼ぶのを聞いていたから。それと張り合う気持ちもあって、前から呼びたいと思いつつ、何か充希を引き留めるものがあったのだろう。
 健は、充希が芳井以外を名前で呼ぶところを聞いたことがない。そこにもしかしたら充希の中の大事な境界線があって、ようやく健をその内側に入れる踏ん切りがついたのかもしれない。
 そんなことを、思った。
「……なんだよ。ダメなのかよ」
 顔を赤くして、答えない健を睨んで充希が拗ねる。
 いや、実は健の考えすぎで、ただ充希はチカと張り合っていると思われるのが恥ずかしくて言い出せなかっただけかもしれない。深遠なようでいて底が浅い部分もある充希だから、本当のところはわからない。でもいちいちそれを暴く必要もない。
 全部を穿って考えることは必要なくて、ただ健が、少し立ち止まって充希を思いやれればそれでいい。考えすぎてすれ違って喧嘩をすることがあっても、答え合わせをして「なぁんだ」と納得できたらまた寄り添える。
 雨を降らせて、固まったところにまた雨を降らせて、繰り返すうちにいつか磐石になるかもしれないし、いつまで経っても降る度にぬかるむのかもしれない。
 先のことはわからない。だからこそ、二人で過ごすこれからを楽しみにもできる。
 きっと、誰しもそんなものだ。
「いいに決まってるじゃないですか」
 笑って、健は充希をぎゅっと抱き締める。充希も笑いながら、健の首に腕を回す。
「健」
 充希が呼んで、返事の代わりに健は充希を横抱きに抱き上げた。
「うわっ!? 怖い怖い、落とすなよおまえ!」
「ちゃんとつかまってて。ベッド行くよ」
「まじかー、お姫様抱っこでベッドに運ぶとか、現実にやるやつ存在するのかー」
「言っとくけど、こんなこと今までやったことないですからね」
「どうだかなぁ」
「……俺に対する信用無さすぎるの、ほんとどうかと思う。こんっな一途なやつ、どこ探しても他にいないっすよ?」
「ふふっ。知ってる」
 恭しくベッドに降ろされた充希が、愛しげに目を細めて、また健を呼ぶ。
 応えるように、健も充希の名を呼んだ。


<END>