高校のグラウンド脇に植わった桜並木が咲き揃い、風が吹く度に薄桃色の花弁を散らす春。日差しが縹色のブレザーの背を温め、眠気を誘われながら
二年一組から順に眺め、先に相手の名を二組の中に見つけ、間を置かず自分の名も同じクラスに見つけて深く安堵する。こういうときあいつの名前は見つけやすくていい、と幸は頬を緩めた。
さらに続くクラス員の名に目を通し、もう一人の親しい友人も同じクラスであることを確認する。今年も去年と変わらず、楽しくやれそうだ。
靴を履き替えて階段を上がり、二年二組の教室に着くと、先に来ていた
「ユキ、こっち!」
年度始め、五十音順に配置された席の場所は決まったようなものなのに、満面の笑みで呼んでくれるのが嬉しくて幸も破顔する。
「
「遅かったな、おまえの方が早く来てると思った」
廊下側一番前の机の上に座った愁平が、少し意外そうに言う。苗字が『
「うん、今朝ちょっと寝坊した。昨日夜更かししちゃって」
「なんだよ、クラス替えが心配だったのか? 良かったなぁ、今年も俺と一緒で」
にやにやとからかいの笑いを浮かべる愁平に、幸は冷ややかな半眼を向ける。
「はいはい、大変喜んでおります」
「えっ、なんか冷たくね? 今年もちゃんと俺のテスト勉強の面倒みるんだよ? わかってんの?」
「なんなの、世話になるやつの態度じゃなくない?」
「いいじゃん、頼むよー。
悪びれずに白い歯を見せる愁平は、もう一人の友人の名を口にした。
「
「あいつは今あの輪の中心」
面白くなさそうに、愁平は窓際の方を指差す。幸がそちらを振り向くと、一つの席を取り囲んで女子が二重の円を作っていた。きゃあきゃあと、何を話しているのかわからないが、よく見ればその中に茶色い髪の長身が無表情に座っている。
表情を作らなくても、その顔は恐ろしく整っていて、ちょっと見ないくらいの美形だ。それに加えて勉強もできて学年屈指の成績、スポーツも万能ときているから、同じクラスの僥倖に恵まれた女子たちが群がるのも無理はないと思う。
「何なんだろうな、あいつのチートスペック」
ため息混じりに羨む愁平に、晃生の髪よりもっと色の薄いウェーブヘアを揺らして幸は笑った。
そのチートスペックの晃生より、俺は愁の方が。と、頭をよぎるけれどそれは言わない。
「ほんとすごいね、水上人気。もうあそこまで突き抜けると次元が違うっていうか。……あ、こっち気づいた」
人だかりの隙間からこちらを見た晃生に幸が小さく手を振ると、晃生は立ち上がって振り払うように女子の群れから離れて歩いてきた。
「おはよう岸川。遅かったな」
さきほどまで無表情に淡々と応対していた晃生が、爽やかに笑みを見せる。この殺傷能力の高い笑顔はなんとしたことだろう。愁平がやさぐれるのも無理はない、と幸は菩薩の心境になる。
「寝坊したんだよ、今朝。夕べなかなか寝つけなくて」
「珍しいな。そんなに俺らとクラス離れるのが心配だったのか?」
「二人していじり方一緒かよ」
憮然と口を尖らせる幸に、愁平と晃生が顔を見合わせる。ふっと空気が弾けて、同時に三人は笑った。
今年もまた三人で過ごせる。それはこの上ない安寧のように、このときの幸には思われた。
始業式を終え、春休みの宿題を提出したら、この日は放免。愁平と幸のところに女子たちの勧誘を振り切った晃生が合流して、いつも通りに三人で帰宅の途についた。
「なんか食ってく?」
三人分の鞄をかごに詰めた自転車を押しながら、晃生が訊く。
「あー、俺バイト代出んの明日なんだよ」
手のひらを上に向けて親指と人差し指で丸を作った愁平が金欠をアピール。
「俺おごろうか? この間は愁がおごってくれたし、お返し」
気を遣わせないための理由を言い添えて挙手をした幸に、大袈裟に愁平は抱きついた。
「さっすが! 持つべきものはブルジョア家庭の友人!」
「その言い方なんかやだな! 人のこと財布みたいに」
「まあまあ、岸川家が裕福なのは事実だし」
笑いながら晃生が幸を宥めて、そうだ、と思い出したように切り出す。
「まだお袋さん、カナダに来いって言ってきてるのか?」
問われて、うーん、と幸は眉を寄せる。
「まだどころか、常に言ってる。LINEの締め括りは必ず『いつでもいらっしゃい、待ってるからね』って。一年経ったんだし、いい加減諦めてくれればいいんだけど」
父親の海外赴任についていっている母親は、日本で一人暮らしをしている一人息子のことが気がかりでならないらしい。一人暮らしとはいえ、資産として持っているオートロックの分譲マンションの一室に住まわせた上、平日は家政婦に家事全般をやってもらっているのに、いったい何が心配だというのか。
「そりゃもう、おまえが女連れ込んであんなことやこんなことやらかしてんじゃねえかって心配なんじゃね?」
下世話に笑う愁平を睨んで、幸は眉間のしわを深めた。
「だって、俺だよ? 超余計な心配じゃん?」
「まあ、俺らからしたらな。お母さん、息子さんはその辺の心配は全くいらない童貞くんですよ、てなもんだけど」
「童貞言うな!」
「実際のとこはどうあれ、親にとっては心配なんだろうな」
揉めそうな空気を察してさらりと引き取って、晃生が一般論でまとめる。
「でも岸川は日本出たくないんだろ?」
問う晃生にやや意味深な視線を寄越され、幸はつま先に目を落とした。
「……うん。英語苦手だもん」
言えばすぐに、愁平が「俺より英語の点いいくせに!」と雑ぜっ返してくる。深刻にさせない愁平の磊落さが、幸はすごく好きだった。
――愁と離れたくないからだよ。
そんなことは、幸にはとても言えない。
三人の出会いはちょうど一年前、高校の入学式のときだった。
中学三年生の秋から単身赴任した父親の元に春から母親も行くことにしたと聞かされ、(このときは本当に)言語の壁を理由にカナダ行きを拒んだ幸は、住まう予定の持ちマンションの近くの高校を受験していた。
ただでさえ同じ中学からの進学者が一人もいない入学式は心細いのに、この頃の幸は少々珍妙ななりをしていて、級友はなんだか自分を遠巻きにしているように感じていた。
幸の曾祖父は金髪碧眼のドイツ人だったらしい。幸は白黒の写真でしか見たことがないが、典型的なゲルマン系の彫りの深い顔をした人だった。
日本人との混血が進んで母の代では黒髪の日本人顔だったのに、なぜか幸の代になって突然先祖返りを起こした。金髪碧眼とまではいかないが、幸の髪はもともとかなり薄い茶色の天パで、虹彩も微妙なグラデーションの青鈍色だ。ついでに肌も白い。
いっそ顔立ちまで先祖返りしてくれれば、髪のことでとやかく言われることもなかったのかもしれないが、いかんせん色の特殊ささえ除けば幸の見た目は完全に日本人で、校則の厳しい中学校では個性を認められることもなく有無を言わせず染髪を強要されることになる。親は地毛証明書も出してはくれたが、無用な波風が立つことを嫌って、幸はおとなしく定期的に黒染めを行っていた。
なぜ茶染めはダメで黒染めは良いのか、と自分が茶染めをしたいやんちゃな友人が教師に訊いてくれたこともあったが、統制だとか一体感だとか、そんな説明をもごもごとする教師へ話にならなさを感じるばかりだった。
好きでしていた染髪ではなかったので、高校入試の面接が終わったと同時に、幸は地毛が伸びるに任せて黒染めをやめてしまった。受験から一ヶ月が経ち、そういうわけで幸の頭は逆プリン状態だったのだ。
(校則のゆるい学校だし、もっと高校デビューとかするやつがいて、俺は悪目立ちせずにすむかと思ったのになぁ)
あてが外れてため息をついていたところに、突然後ろから「なあなあ!」と背中をどやされて、幸は驚いて後ろを振り返った。
「なんでおまえ、そんな妙な頭してんの? 根本の色が地毛?」
悪意のない好奇心で、遠巻きにしている級友たちが訊きたがっているであろうことをけろっと訊いて、初対面の愁平はあっけらかんと笑った。
「おい、愁平。気にしてるかもしれないこと無神経に訊くな」
斜め後ろで窘める晃生はこの頃から長身で、完成されたイケメン具合は取っつきにくすぎて幸は一歩引く。
「あ、うん、こっちが地毛。中学では黒くしろって言われてたから」
隠すように頭を押さえて少しうろたえながら答えた幸に、愁平は目を丸くした。
「えー! なんで! もったいねえ! こんなキレイな色なのに。栗色っつうの?」
大仰に言われて、幸も目を瞠る。物心ついてから、同級生から『ガイジン』『マネキン』とからかわれたりするのはよくあることだったが、キレイなどと言われたのは初めてだ。
「これは栗色ってより亜麻色っていうんじゃないか。……いいな、俺も色抜こうかな」
晃生も上からしげしげとつむじあたりを覗き込んできた。
「おまえ、これ以上シャレオツんなってモテてどーすんだ!」
「うるさいな、頭くらい好きにさせろ」
「あ、あの……」
ぽんぽん言葉が出る二人の間におずおずと割り入った幸の困惑顔を察して、晃生が愁平と顔を並べる。
「この無礼者は井浦愁平。俺は水上晃生」
「小学校から一緒なんだ。おまえは? ん? キシカワユキ? よろしくなーユキ!」
無礼者呼ばわりは気にならないらしく、尋ねておきながらせっかちに机に貼られた名札を読んだ愁平に読み違えられて、ようやく幸は少し笑んだ。
「ミユキ、だよ」
「幸せの一字でミユキって読むのか? 女みてーな名前だな。ユキでいーじゃん。あれ、どっちにしても女っぽいな」
「こら、人の名前に女っぽいとか言うな」
晃生は愁平の無礼を咎めたけれど、結局それからずっと愁平は幸をユキと呼び続け、愁平しか呼ばないその呼び名は、いつしか幸にとって特別な響きを持つことになる。
傷んだ黒い毛先を早く落としてしまいたくて、ある日突然短髪になって現れた幸にも、愁平は大袈裟に「いいじゃん!」と賛辞を送ってくれた。
「それが素のおまえなんだもんな。黒くしてるより全然いいと思う」
きっぱりと幸の姿を肯定してくれて、それは身内を除いて今までなかった反応で、周りとの異質感を無意識に自分が受け入れて同調しようとしていたことに気づかされて。
違っていていいと言われて幸は、初めて他者と違う自分に目を向けた。
目の色が違う。
髪の色が違う。
肌の色が違う。
そして、普通は女の子に向かうはずの気持ちの方向も、どうやら違うらしいことにも。
「愁」
自分のハートを起点としたベクトルの矢先は、まっすぐ愁平に向かっている。
「ありがと」
けれどそれは明かせない。
今はふわふわと伸びた前髪に、瞳と本心を隠す。朗らかな愁平の表情が曇るところも凍るところも、幸は決して見たくはない。
だから毎朝、幸は鏡に向かって自己暗示をかける。
――俺は、愁を、好きじゃない。