翌日、大樹を伴って食堂に現れた悠は、先に来ていた麻衣と孝之に、「コイツ一ヶ月俺の下僕になったから」と、悠の荷物を持たされた大樹を親指で指し示した。
また今度は何が始まったのかと顔を見合わせる二人に詳しい説明はしないまま、悠の隣で大樹は恭しく頭を下げた。
「一段と精神年齢下げちゃったんじゃないの、悠ってば……」
「まあいいじゃないの、仲良さそうで」
前日にようやく想いを通じ合わせた二人だったが、そんな事情とは関係なく、悠は夕方から塾講師のバイトを入れていた。適当なところで勘弁してくれと何度も申し入れた悠を大樹はもう少し、もう少しと引き止め続け、結局悠はその日のバイトを休む連絡を入れる羽目になった。
「六時から九時の授業三コマ、時給一八〇〇円×3! 飛ばしたせいで来月の食費足りなくなったらおまえのせいだからな!」
おかんむりの悠を宥めるために、ひと月下僕になれという幼稚な要求を、大樹は甘んじて受け入れたのだった。
結果的に食費が足りなくなることはなかったのだが、ひと月後もふた月後も、悠は大きな顔をして大樹の横にいた。
「あれ、悠今日はパスタ?」
「最近中華以外もけっこう食ってんじゃね?」
「ああ。今日はこいつがバジル持ってるっつってたから」
悠のトレイを覗いた二人にこともなげにそう答えると、悠の隣に座った大樹が無言でバジルの瓶を置く。そんなやり取りが頻繁になって、麻衣は含み笑いを噛み殺しきれなくなった。
「ねえ、大樹くん、こんな亭主関白な奴のどこがいいの?」
すかさず悠が睨み上げる。
「誰が亭主だ」
「じゃあ奥さん?」
「もっと違うだろ!」
「こういうかわいいとこ、全部ですかねぇ」
言い合いの間を縫ってのほほんと大樹は答え、肩を抱かれた悠は振りほどきもしないでバジルを振りかけたパスタを平然と口に運ぶ。
悠は自分たちの関係について何ら説明をしていなかったが、麻衣と孝之は早々にそれを察知し、見抜かれていることも承知の上での悠と大樹の振る舞いだった。
「人前でいちゃついちゃってー」
「別にいちゃついてねえ。こいつが勝手にくっついてくるだけだ」
「またまたー。悠って二人きりだと態度違ったりするの?」
「いえ、わりとこのまんまですね。平常時は」
では平常時でないときはどうなのか、とまではさすがに誰も訊けなかった。にこにこと大樹に見つめられながら、パスタを頬張る悠は耳まで真っ赤になっていたので。
「おまえ、余計なことくっちゃべってないでさっさと食え。和訳教えろっつってたんじゃねえのかよ」
照れ隠しのように悠は大樹の後ろ頭をはたく。
「あいたっ。そうだ、そうでした。今日の論文の和訳に、今期の単位がかかってるんでした。いただきます」
「ははっ、落とせ落とせそんな綱渡りの単位」
憎まれ口を叩く悠は、何も気負わない、素の姿を見せていた。
大樹と悠が席を立ったテーブルで、麻衣は気だるく頬杖をついた。
「あーあ。悠、幸せそうね」
給茶機の氷を食みながら、孝之も逆の手で頬杖をつく。
「そらま、長い両片想いが実ったわけですから。今が幸せの絶頂でしょうよ」
「悠がずっと好きだった人が、大樹くんだったとはねー。孝之が言ってた『逆』っていうのは、大樹くんが悠を好きになって追いかけてるんじゃなくて、悠の方が先に大樹くんを好きだった、てことだったのね」
麻衣の答え合わせに、正解、と孝之は笑った。
「たぶん悠、大樹くんの前ではすげえ完璧人間やってたんだと思うよ。俺らが最初に出会った頃みたいな、隙のない好青年。女避けのために今みたいな仕上がりになったけど、大樹くんのことは避けるどころかウェルカムだったんだろうなぁ」
「ある程度、大樹くんにはいいカッコしてたってことか。悠にも可愛げあったのね」
かつての好青年の現在とのギャップに笑って、麻衣は少し目を伏せた。
「二人がくっついて良かった。悠、またよく笑うようになったし……でも前とはちょっと違うの。素敵な王子様って感じじゃなくて、安心しきった、ガキんちょみたいな笑い方」
「そんなの聞いたら、またムキになって否定すんだろうな」
すぐに怒った悠の顔が思い浮かんで、二人で笑う。
「そんな顔、あたしにはさせてあげらんなかったなぁって」
あおのいてため息をついた麻衣に、孝之は片眉を上げた。
「あれ、麻衣まだ諦めてなかったの? 悠」
「諦めてたわよ。だってもう対象外なんだもん。それとは別の次元でね、もう、妬ましくって仕方がないの! 羨ましいの、大樹くんが!」
「おー、麻衣ちゃん素直ー」
カキ、と氷を奥歯で砕いて、孝之は目を細めた。
「じゃあ俺も言っちゃう。俺も、妬ましくって羨ましくって仕方ねー! 悠が!」
「えっ?」
「うん?」
しばし見つめ合って、麻衣は口元を押さえて立ち上がった。
「たっ……孝之まさか、あんた大樹くんのこと!?」
「ちがーうだろそこはー」
食堂の窓の外には、遠くに積乱雲が立ち上る底抜けに青い空が広がっていた。
「……で、このwhere句にこのthatがかかると」
「ああ、やっと意味がわかった!」
教室前のベンチで教材を挟んで頭を突き合わせて、悠の説明に納得した大樹が天を仰いだ。
「さすが人気の高時給塾講! 教え方がわかりやすい!」
「金取るぞこら」
「体で払うんで」
「……蹴っとくか」
「やめて痛い」
授業開始時間が迫って慌てて教材を片付けながら、大樹はそっと上目で悠の顔を盗み見た。
伏せた目元に長い睫毛が影を落として、整った顔立ちに憂いを滲ませているのがとてもきれいだ。群がりたくなる女性の気持ちが痛いほどわかる。
でももう群がらせない。俺だけの先輩だから。
幼犬を卒業して立派な番犬気分の大樹が決意を新たにしていると、ふと視線を上げた悠とばっちり目が合ってしまう。
「……なんだよ、見てんなよ」
口調は荒いのに顔には照れ笑いが浮かんでいて、この場で抱きしめたい衝動を大樹は必死で抑え込んだ。
「先輩、今日も九時上がり?」
「うん」
「迎えに行ってもいい? 家まで送ったら、ちゃんとすぐ帰るから」
少しでも会いたい気持ちを伝えると、悠は顔を赤くして耳朶を引っ張った。
「……明日、土曜日だし。別に泊まってってもいいけど」
「ほんとっ?」
「けど体で払うとかマジでいらねーからな! マジで!」
「心得ております」
振りだということをね。
じゃあまた後で、と軽く手を上げて教室前で二人は別れる。
二年も音信不通で、悠の方はもう二度と会うつもりもなかったのに、ほんの数時間の別離がなんだか寂しい。
早く夜になればいいと、同じ思いが二人の胸の内にあった。
<END>