「ねえ!」
講義を終えて教室を出たところで、後ろから高い声で呼び止められると同時に肩を叩かれて、
「あのさ、あたしらの友達があんたのこと気になってるらしいんだけどさ」
赤く艶光りした唇が親しげに笑いかけるのに、悠は眉間のしわを深める。
悠はその女子学生の名前も顔も知らなかった。
「良かったら今度の土曜日に合コン」
「無理」
言い終わらないうちの断り文句に、話しかけた女子学生の表情に困惑が浮かぶ。
「……あー、じゃあいつならいける? 都合のいい日を」
「未来永劫無理」
再びかぶせて強く拒絶して、相手の反応も見ないで悠は踵を返した。
背後から複数の女性の声で、「何あれサイアク!」「ちょっとモテるからって調子乗ってんじゃねーよ!」と姦しい糾弾が聞こえてきたが、悠は一切意に介さない。どんどん歩みを進めて内心で悪態をつく。
何なんだ、用があるなら自分で言いに来い。来たところで断るがな。しかも気になってるって何様だ。だから何なんだ。交際に持ち込みたいなら臥して乞え。そうしたところで断るがな。だいたい好きで女にモテてんじゃねえ。断じて調子にも乗ってねえ!
「はーるかっ」
食堂へ向かって足早に歩いていると、また軽やかな女声で呼ばれ、悪態の勢いのままに怒りの形相で振り返る。
「おー怖っ」
「悠さんお怒りだわね」
ニヤニヤと笑っているのは、悠の数少ない友人である、同じ経営情報学科の
「おまえら、見てただろう」
低く威嚇しても、二人はまるで悪びれない。
「ははっ、見てた見てた」
「相変わらず、ほんとモテるよなー。ちょっとくらい分けてもらいてーわ」
「ちょっとと言わず、全部引き取れ。俺には迷惑でしかないんだ」
辟易と言い切って、悠は二人と並んで食堂へ向かった。
三人は入学後のオリエンテーリングで意気投合して以来、丸二年ずっと親しくしている。
今月三年生に進級して配属されたゼミは、麻衣・孝之組と悠とで別れてしまったものの、違う授業の時間以外は相変わらず行動を共にしていた。
「だいっぶキャラ変して、いけ好かないのが板についてきたのにね。まだ寄ってくるんだから、やっぱこの顔かしら? 無駄イケメン」
「入学当初はえげつなかったもんなぁ。この顔で超好青年、同じ学科の女子ほぼ全員玉砕したんじゃね?」
「あたしも含めてね」
「麻衣は悠の顔面目当てじゃなかったじゃん」
「……おい、本人の目の前でそういうコメントしづらい会話やめろ」
心底嫌そうに眉をしかめて見せるのに、二人が返すのは楽しそうな笑みばかりで、脱力して悠は息をつく。この二人からはこんなふうにいじられてばかりだ。
学食入り口の券売機で、悠は迷いつつ、今日は担々麺を選んだ。
さほど美味でもない学食にあって、中華系はわりと悠の好みに合うのでよく選ぶ。まあ不味くても文句の言えない価格だし、とりたてて美食家なわけでもない。午後の授業中に腹が鳴らなければ、日によって載っているのがチンゲン菜だろうがホウレン草だろうがどちらでも構わない。
トレイを手に列に並ぶ。最近はあまり女子からアプローチを受けることもなくなってきていたのだが、久々にそんな話題になって悠もふと過去の自分を思い出した。
中高一貫の男子校に通っていて、女子に対する免疫も興味も全くないまま共学の大学へ進学し、当初は生来の朗らかな性格で誰に対しても誠実に接した結果、悠は孝之の言うところの『えげつないモテ方』をした。それこそ、同じ学科に三十人ほどいる女子のうち、実に八割余りが悠に告白したのだ。
中性的で涼しげな整った造作に、一七五センチの痩躯はすらりとスタイル良く、成績優秀でも鼻にかけず、何より誰にも優しく親切で打算がない。
入学当初の悠は、およそ欠点など見当たらない完璧な理想の王子様だった。
けれどあまりにモテ過ぎたために男子からは疎まれ、女子の内乱を生み。数々のトラブルに巻き込まれるに従って悠は意識的に自らの性格を歪ませていった。
誰に対しても愛想の欠片も振りまかず、親切心など一切見せず、傲慢な態度で他者を切り捨てる。そんな悠から大半の者は遠ざかっていったが、近くに麻衣と孝之だけは残った。
麻衣は恋心ゆえに、孝之は完全に面白がって。
そして悠にとって二人が他とは一線を画す存在になりつつあったある日、麻衣が悠に想いを伝えた。つき合ってほしいわけではない、ただ伝えたかったのだと。
そういう気持ちを見知っていたこと、また麻衣が他の女子とは違うことをよくわかっていたことから、迷った末に悠は、麻衣にきちんと向き合って自分を明かした。
「黙っててごめん……俺、ゲイなんだ。ずっと前から、好きな人がいる」
聞いた麻衣は泣いたけれど、それからはずっと悠の親友としてつき合ってくれている。
ちなみに孝之にもその直後にカミングアウトしたが、反応は「へー」だけだった。
「いいよなー悠は、黙って仏頂面してるだけで向こうから寄ってきて入れ食い状態」
学食ではカレーかラーメンの二択の孝之が、ざくざくとスプーンでカレーの山を崩しながらぼやく。
「寄ってこなくていいし食ってもない」
「孝之は女の子のことより課題の心配した方が良くない? 今回も悠がいなかったら進級やばかったじゃない。一浪なのはともかく、留年は女子からのポイント低いわよ」
「麻衣ちゃん、俺胸が痛いわー」
「俺を無視するな!」
いつものように悠をいじりながら三人が昼食を取っていると、ふとテーブルに人影が落ち、頭上から低い声が降ってきた。
「先輩?」
三人そろって顔を上げると、見慣れない長身が悠を凝視していた。
「……誰? 悠、知り合い?」
男と悠を見比べながら、孝之が問う。それに首を傾げながら、悠は怪訝に男を凝視し返した。
男はまったくぴんと来ていない悠の様子に、必死の形相で自身の喉元を指で指し示す。
「澤本先輩。俺です。コエダです」
「コエダ……?」
声に出すと、悠の脳内に中高の思い出が一気に、鮮明によみがえった。
けれど、中高時代に「小枝」とあだ名されていた男は、こんな大男ではなくて、もっと小柄で、もっと華奢で、こんな精悍な顔つきではなくて――
「やっと会えた……!」
感極まったように端整な顔を歪ませた男は次の瞬間、白昼の学食で人目も憚らず、全力で悠を抱き締めてくる。
思い出の中の少年と眼前の青年とのギャップに脳が混乱を来したところへ想定外の行動を重ねられ、男の腕の中で悠は完全にフリーズした。
「わお」
「……生き別れの兄弟?」
孝之と麻衣も、リアクションの正解がわからずに呆然と突然の抱擁劇を眺める。
やがてざわざわと遠巻きに注目を集めているのに気づいて、悠は腕の力を全く緩めようとしない男の背中を力任せに殴りつけた。
「誰なんだおまえはー!!」
昼食時でほぼ満席状態の学食に、悠の怒声が大きく響いた。