次の土曜の夜、奏太と紺野は駅近くの居酒屋の個室にいた。待ち合わせの時刻にはもう少しというところで、待ち人のケイはまだ現れていない。
紺野の隣に座った奏太の顔色は優れず、さっきから割り箸の袋で箸置きを折っては開き、を繰り返している。
「……そんなにこえぇのか、お前の保護者は」
奏太にそこまで緊張を露にされると、一緒に呼び出された自分も何かの覚悟が必要なのではないかと、少々紺野もそわそわしてくる。
「いえ……怖いということはないんですけど、ここに至る経緯がやや複雑だったのでどんな顔をされるかと……」
三度目の箸置きが完成したところで、個室のドアが軽くノックされた。
「お連れ様いらっしゃいましたー」
「どうもー」
いつも通り隙のないメイクで、美人スマイルを振りまきながらケイが店員と一緒に部屋に入ってくる。
「お揃いでしたらお先にお飲み物お伺いします」
「奏太さんたちもまだ? ビールでいい?」
「あ、うん。紺野さんも?」
「おう」
「じゃあ生中三つでー」
「かしこまりました、少々お待ちください」
店員が出ていくと、バッグを席に置いたケイが紺野の向かいに座る。
「ごめんね遅くなって。講義の後で捕まっちゃって」
「ううん、全然、待ってないよ」
気を遣いまくった奏太の言葉にふふふと笑い、ケイが紺野に右手を差し出した。
「はじめまして、
いつも女性にしてはハスキーだな、くらいの中音で話すのが常のケイが、思い切り低音の男声でフルネームを名乗り、紺野の愛想笑いもさすがに固まる。
なるほどこりゃこえぇわ。
「……どうも、紺野朔です」
紺野も右手を差し出し、握手を交わす。その間も美人スマイル全開のケイの目は全く笑っておらず、奏太は紺野の隣でハラハラと胃を痛めた。
「ケ、ケイちゃん、前にも話したことがあるけど、紺野さんは俺の会社の先輩で」
「う~ん、よく存じ上げてるよー。奏太さんの会社の先輩で席も隣でとっても親しくて、酔った奏太さんを自宅に連れ込んで裸に剥いて一夜を過ごしたんだよねぇ?」
普段の声に戻したケイの目はまだまだ笑わない。
「いや、あの、そこはまだ話してなかったけど実はその時は何も」
「失礼しまーす。生中でーす」
中ジョッキを持った店員に遮られて、何もなくて、という大事な説明をなかなか告げられずに奏太はまた胃を痛めた。
適当に料理も注文して、店員が引き上げたタイミングで、ケイがジョッキを掲げる。
「そいじゃま、三人の出会いに、カンパーイ」
「か、かんぱーい」
めいめいにジョッキをぶつけ、一口目を含んだタイミングでケイが呟いた。
「生中ってなんかエロいよね。『生で中出し』の略、みたいな」
「……っ!!」
マスカラばっちりの上目と目が合って、ビールを軽く噴いたのは紺野だった。
「ちょっとケイちゃん!」
「あははごめん、動揺しちゃった?」
ケイからおしぼりを受け取りながら、動揺したのは事実の紺野は激しく咳き込んだ。
「ちょっ……柚木お前、どこまで話してんだよ!」
「え!? 言ってないよ俺そんなことまで!」
「ふ~ん、生で中に出しちゃったのか」
納得したように再度呟いたケイに、二人で固まる。これは聞きしに勝る。
「おい……話が違うぞ」
「ダメなんだよ紺野さん……ケイちゃんには絶対隠し事はできないんだよ……」
つき合うことになった、という報告はしていたものの、出会って十分で『生で中出し』したことまで白状させられ、ここからの時間が恐ろしくて二人で戦慄した。
「紺野さん、ダメだよ? それって受けにはすっごい負担でかいんだから。まあ素人なら知らないのは仕方ないけど」
「はい……すいません」
たぶん何を隠そうとしても、より深刻なダメージを受ける形で暴かれてしまうのだろうと、悲壮な覚悟を決めて紺野は頭を下げた。
そういう配慮のない行いをしたのは、というかそういう行為そのものを今まで一度しかしておらず、もう二度と繰り返してはならないと反省したのは記憶に新しいところだ。
体調不良を心配して見舞ったはずなのに、愛し合った翌朝の奏太の体調は、別の方向へ悪化してしまっていた。
なかったはずの熱が出て、腹痛を起こし、体のいたるところに倦怠感を覚えて起き上がれない。結局その日も奏太は会社を休む羽目になった。
その日一日ゆっくり休んで食事もちゃんととったことで、さらに翌日には通常通り出勤できる体調には戻っていたが、その後は平日で残業続きだったのもあって紺野は奏太に触れていない。
思い出してしまうと、紺野は隣の体温を強く意識した。
まだ減った体重分をいくらも取り戻せていない、細った身体。それが紺野の愛撫にどんなふうに反応し、紺野自身をどんなふうに受け入れたか。性的な興奮よりも、その切実な様がきりきりと紺野の胸を痛ませたこと。
奏太が求めるものを、すべて漏らさず渡したくて、それに必死になるあまり、紺野は奏太に無理を強いた。後になってみれば、奏太が求めたなどというのは都合の良い解釈で、ただ自分の欲をぶつけただけのような気もする。それだけに、奏太の熱に浮かされたつらそうな表情は、紺野に強く反省を促した。
「……悪かったな」
「え?」
何度謝っても足りず、そのたびにもういいと奏太から苦笑されている謝罪を、また紺野は口にする。
後悔していないか? 我慢していないか?
答えが怖くて訊けない問いがある。奏太が望んでいた相手は、自分のような人種ではなかったはずだ。それを、詭弁を弄して説き伏せて、無理に受け入れさせてしまったのではないか。
「もう、気にしないでくださいって、何度も言ってるのに」
けれど困ったように小首をかしげた奏太が気恥ずかしげに笑むと、許されたような気になってしまう。
「ちょっとー、何見つめ合っちゃってんのー。見せつけないでよね」
ケイのブーイングが入り、はっとして二人でジョッキをあおった。それを見てケイが思わず笑いを漏らし、場の空気が不意に緩む。
「ケイちゃんの目に、どう? 柚木は幸せそうに見える?」
戯れに、紺野はケイに問うてみた。ケイもジョッキを揺らしながら、やっと鋭かった目に笑みを浮かべた。
「……すっごく。悔しいくらい」
短く、強く肯定して、ケイは頬杖をついて奏太を見つめる。
「おめでと。よかったね」
「うん……ありがとう」
俯いた奏太の目には涙が浮かんでいて、紺野は黙ってテーブルの下でやせた手を握った。
そこへ、軽やかなノックの音が響いた。
「失礼しまーす。お料理お持ちしましたー」
「あー来たー、唐揚げー!」
「ほら柚木、肉食え肉」
「え、ちょっとケイちゃんも紺野さんも、載せすぎだって!」
「奏太さんコレ今日のノルマねー」
二人がかりで料理を取り分けられて、奏太の前にはてんこ盛りの取り皿が置かれる。
「わぁ……夢に出そう」
「いいじゃん、肉の夢なら」
げっそりとした奏太にケイは笑い、紺野は別皿にパスタを盛って隣に置いた。
店を出ると、いい具合にほろ酔い加減のケイは「またねー」と手を振りながら駅に向かってご機嫌に歩いて行った。
それを見送って、紺野と奏太は並んで歩きだす。
「……結局、洗いざらい吐かされたな」
ひどく疲れる時間を過ごした紺野は、「豆腐メンタルの奏太さんをよろしく頼むね」と戯けながら、少し寂しそうにも見える笑みを浮かべていたケイを思い返していた。
「ほんとに。一切の隠し事を許してくれないんですよね」
同じく疲れた奏太も、深く息をつく。
「あの特異技能は弁護士向きなのか?」
「俺も実は、ケイちゃんは検事の方が向いてるんじゃないかと思ってる」
笑いながら、二人の歩みは交差点に差し掛かった。直進すると奏太の家の方向で、左に曲がると紺野の家。足を止めて会話も止まってしまうと、まだまだ蒸し暑い夜風にのって、秋の虫の声が届いた。
「……じゃ、またな」
週明けに会社で、という別れの挨拶を、紺野が静かに落とす。
踵を返した紺野のシャツの裾を、咄嗟に奏太は掴んでいた。
「あ、の」
「ん? どうした」
向き直った紺野に、奏太は視線を合わせられず俯いた。
紺野が今夜はここまでにして帰りたいと思っているのなら、こんなふうに呼び止めるべきではない。わかっているし、今までだってそんな我儘を言ったことはない。でも、だけど。
もう少し、一緒にいたい。
そう思っているのが自分だけでないことを祈りながら、奏太は喉に力を込める。
「紺野さんの部屋に、行ってもいいですか」
言ってしまってから、はっとする。急にお邪魔するのは迷惑かもしれない。
「ええと、無理だったら俺の部屋でもいいんです。長く引き留めたりしませんから」
不器用に自分の望みを伝えようとする奏太に、ふと沈黙した紺野が静かに笑う。
「長居しちゃダメなのか?」
「……え?」
「俺、おとなしくしてらんないかもしれないけど。そしたら、あんまり早く解放してやれないかもしれないけど。いいのか?」
問いの意味を理解して、一気に顔が紅潮した。けれど照れている場合ではない。それを望んでいるのは自分なのだから。
「いい、です。そのつもりで、準備を」
「準備?」
「あの……『生中』にならないようにするための、準備です」
言って、とたんに紺野に爆笑され、また後悔する。我ながらなんと色気のない誘い文句だったことか。
「……俺、もう飲み屋でビールを『生中』で注文できねえわ」
とんでもない奴だなケイちゃん、と紺野はこぼしながら、奏太の手を引いて左の道を歩き出した。
「実は俺もその準備はできてたりする」
「え……」
「意外そうな顔するなよ。俺、たぶんお前が思ってる三倍は、お前のこと考えてるぞ」
そう言って紺野は、奏太の肩に腕を回した。
「紺野さん……こんな往来で」
「いいだろ、俺もお前も立派な酔っ払いなんだから。肩ぐらい貸せよ」
組んだ肩を強く引いて、奏太の耳に口を寄せる。
「俺んちで、仕切り直すか」
何を、かは問わずとも奏太には知れる。
「今日は寝るなよ、脱衣所で」
「寝ませんよ。そんな酔ってないです」
軽口をたたき合って、明るい夜道を二人で歩く。
今夜は肉の夢を見る。そう決めた奏太はもう、落ちる夢で震えることもないと思えた。
<END>