アネモネ -side T- 02


 長い夏が終わり、短い秋は走り過ぎて冬が来て、あっという間に年の瀬を迎えた。
 盆休み以来、糸井とは会っていない。最寄りのコンビニには週に何度も帰宅途中に寄っているが、糸井の姿は見かけない。三島は十月からプロジェクトチームのリーダーになった。忙しくなって毎晩の帰宅が遅くなったので、糸井がこのコンビニを利用していたとしても生活時間帯が合わないのかもしれない。
 意外と近くに住んでいても会わないもんだな、と思っていたら、大晦日の夕方、酒を買い足そうと出掛けた先で糸井に出くわした。
「よぉ」
 調味料のコーナーでしゃがみこんでいた糸井に声をかけると、気づいた糸井は露骨に嫌そうな顔をして三島を見上げる。なんて顔すんだ、可愛くねえな。
「一人か? 糸川は?」
 訊くと、糸井はしゃがんだまま棚に視線を戻す。小さめの醤油ボトルを持って、普通の濃い口にするか、だし入りにするかで迷っているらしい。
「……一人です。糸川さんとは、来週の連休に会うことにしてるから」
「へぇ? せっかく年末年始の休みだし、年越しとか一緒に過ごすもんじゃねえの?」
 盆休みに続いてせっかくの長期休暇に会う約束をしないのかこのカップルは、と驚きを隠さずに言った三島に、ボトルを選んで立ち上がった糸井が少しイラついた様子で口を開いた。
「糸川さんは実家に帰省中。俺も帰省してることになってるから、……」
 その口をはたと噤む。どうやら失言だったらしい。
「ほぉ~。田舎に帰省してることになってる糸井さんは、なんで大晦日に近所のコンビニで醤油買ってるんでしょうね?」
 糸井の実家は、たしか新幹線の距離のはずだ。社会人になってからも、律儀に盆暮れの帰省を欠かしていなかったと記憶している(セフレ時代に、盆暮れは都合がつかないと先に謝られたことがある)。
 そういえば盆休みもこいつは東京の自宅にいた。体調を崩して帰省を断念したのかと思い込んでいたが、この歯切れの悪さからしてそうではなかったのかもしれない。
 不必要な聡さを発揮してニヤリと笑う三島に、下手な弁解は得策ではなさそうだと察して、嘆息した糸井は三島の持っていた酒入りのかごに醤油ボトルを入れ、そのかごごと引き取った。どうやら口止め料ということらしい。
「なー、どうせなら一緒に年越ししようぜ。俺も一人で暇だったしさ」
 レジで支払い待ちをする糸井の肩に顎をのせると、糸井は一瞬驚いたように目を見開き、嫌そうに腕を回してそれを追い払う。
「なんで俺が三島さんと」
「いーじゃん。コンビニにわざわざ醤油買いに来るってことは、何か料理中だったんじゃねえの? 食わせろよー」
「だからなんで俺が!」
「あれー、そんな口利いていいのかな?」
 店員が会計金額を伝え、事前に電子マネーでの支払いを指定していた糸井にICリーダーを指し示すと、糸井よりも先に三島が携帯をかざしてしまった。支払い済みの軽やかな音が響く。
「あ!」
「口止め料ももらってねぇしなぁ」
 がさ、と大半が酒で占められた袋を三島が持ち上げると、大晦日にまでお仕事ご苦労なバイト店員が、ありぁたぁしたー、とやる気のない声を上げた。
 店を出て、糸井のアパートへ向かう。場所も、部屋番号も覚えている。
「本気で? 俺と年越しするの?」
 部屋の鍵を開けながらまだ糸井は疑わしげな声を上げていて、笑いながら三島は部屋に上がった。
「お邪魔しまーす。お、何これ、雑煮?」
 キッチンには作りかけとおぼしき鍋があって、勝手に開けるとかつお出汁の良い香りが立ち上った。中身は根菜と鶏肉。
「凝ったおせちなんか作れないけど、一応多少は正月らしくと思って。今夜はこれで蕎麦食べて、明日からお餅入れようかと。……三島さんもいる?」
「うお、うまそー。いるいる」
 買ってきた袋の中から醤油を出して糸井に渡して、残りは冷蔵庫の中へ。そのうちの一本を開けて、三島は糸井の背後で晩酌を始めた。
「んで? なんでおまえは帰省してなくて、糸川には帰省してるってことにしてあるわけ?」
 料理を再開した糸井は問いに一瞬動きを止め、俯いて声を詰まらせた。
「……ちょうど一年前の帰省で、家族へのカミングアウトに失敗しちゃって」
 思ったより重たい理由に、缶を傾ける三島の手も止まる。
「母を悲しませてしまって……弟からは死ねばよかった、死ねって、言われてしまって。だからもう、実家には」
 俯いて、糸井は鍋をぐるぐるとかき回した。
 どこにでも似たような話は転がってるもんだな、と三島は思う。三島も大学時代に同性と関係しているのを悟られて、親から罵倒され否定されて、それ以来家族とは連絡を絶っている。元々さほど家族仲が良いわけでもなかったが、決定的な亀裂が入ったときはさすがに三島もしばらく落ち込んだ。一番身近な存在に否定されると堪えることは、三島も経験がある。
「……それを、糸川には話せてねえんだ?」
 だから糸川には帰省していることにしていて、年末年始を一緒に過ごす約束をしていないのかと、三島は納得する。
「糸川さんに、話すようなことじゃないから」
 けれど、話す気はあるが機会がなくて話せていないというわけではなく、もとより話す気がないのだと、糸井はきっぱりと言う。
「なんで。あいつなら親身になってくれるだろ。おまえが一人でここにいるなら、自分の帰省よりおまえのこと優先するんじゃねえか?」
 糸井は振り返り、苦笑して首を振った。
「そんなことさせられない。糸川さんには家族を大切にしてもらいたいし、俺んちの事情で煩わせたりしたくないもん。これ以上俺のこと面倒くさいと思われたくないし……余計なことは言わない方がいい」
 これ以上?
 三島の中でその言葉が引っ掛かる。糸井は糸川が自分のことを多少なりとも疎んでいるとでも思っているのだろうか。あの糸川が?
 そういえば、夏には糸川の過去の行いを気にするようなことも言っていた。不特定多数と同時期に関係するのにも抵抗がない人なのか、などと。確かに過去にそういう時期はあったかもしれないが、三島の目には、糸井とつき合い始めてからの糸川は、ずっと糸井一筋でいるようにしか見えない。
 何か疑いを持つきっかけがあったのかもしれないが、それを晴らすためにも糸川に直接訊けばいいのに。不安な気持ちも話せばいいのに。
 でも、糸井がそうはしないことも三島には容易に想像がつく。
 糸井は糸川に何も求めない。何も伝えない。相手にとって都合の良い自分でいることでしか、その傍にはいられないと思っている。
「……死ね、か」
 身内からそんな強い言葉を投げつけられて、さぞ傷ついただろう。きっと糸川がそのことを知ったなら、全力で守り、癒してやりたいと考えるだろう。
 でもおまえは、その傷も糸川には見せてやらないんだな。糸川には、何もさせてやらないんだな。
 おまえにとって、糸川って何なんだろうな。
「じゃあ、絶対に死んでなんかやるなよ」
 三島が糸川について何を言ったところで糸井に響かないのは明白なので、せめて、糸井が視線を落とし続けているであろう弟の言葉から目を逸らすことができるよう、糸井の視野を広げにかかる。
「え……?」
「まさか本気で死のうと思ったことでもあるのか? どんな鬼畜だ。今も弟は勢いで言った言葉を死ぬほど悔やんでるさ。それで本当に兄貴に死なれてみろ、メンタル崩壊待ったなしだろ。弟にトドメ刺してやるなよお兄ちゃん」
 糸井の弟がどんなつもりでその言葉を吐いたかは知る由もないが、三島は敢えてそう言った。
 糸川や糸井自身のために、生きて幸せになるために、などと諭したところで糸井はたぶん聞き入れない。家族への罪悪感が勝ってしまう。ならば言った本人のためと言ってやれば、少しは聞く気になって、言われた言葉の痛みも軽減されるのではないか。
「そう……なのかな。どうなんだろう……」
 いまいちピンと来ていない様子で、糸井はまた俯いて鍋に向かう。こんなふうにフォローしてやるのは俺の役目じゃないだろう、と三島は内心で舌打ちをしながら缶の底を上げた。
 
 テレビの中でにぎやかなカウントダウンが済んだ頃、糸井の携帯が鳴って、糸井はいそいそとベランダへ出ていった。間違いなく糸川からの着信。寒いベランダで白い息を吐きながら、頬を赤くしている糸井は幸せそうにも見える。
(バカ糸川。のんきに糸井に騙されてんじゃねえよ)
 嬉しそうに口角が上がるあの口はきっと、今もいくつもの嘘を並べている。そうしないと保てない関係になっているのに、幸せそうに笑っている姿はどこか滑稽だ。
 恋人たちのあけおめ電話はまだしばらく続くのだろう。糸井が自室の寒いベランダに上着も羽織らずにいるなんてことは、おそらく糸川は想像もしていない。糸井もそんなことは話さない。
 部屋に戻ってくる頃には、体の芯から冷えきっていることだろう。また風邪なんかひかなきゃいいけど、と三島は思った。


<END>