七月四日。
時計が零時を回り、糸井は三十歳の誕生日を迎えた。
一人の部屋で、ベッドに仰向けになって、ぼんやりと携帯の真っ暗なディスプレイを眺める。点灯させたところで、そこには何の通知も来ていない。
当然だよな、と、糸井は息をついて携帯を持った手を胸に落とした。
大人になって、わざわざ友人同士で誕生日を祝い合ったりなどしない。糸川とつき合うまで、糸井には恋人もいたことがない。
これまで日付が変わるのを狙ったように誕生祝いのメッセージを毎年律儀に送ってくれていたのは、糸井の母と弟だ。
母からは定期的に近況を尋ねるメールが来ていたし、毎回それにきちんと返事をしていた。盆正月には必ず帰省して、弟家族ともよく顔を会わせていた。
素行も口も悪かった弟だが、兄にはよく懐いていた。大人になっても続いていた誕生祝いのメッセージは、その名残だ。
家族仲は良い方だったはずだ。糸井は幼い頃に記憶喪失になった自分を支えてくれた家族に感謝していたし、その恩に報いたいと思ってきた。
品行方正で家族思いな、どこに出してもそれなりに恥ずかしくない長男であり続けたはずだった。
昨年末までは。
多数派に属さない自分の性的指向。言葉を尽くせば、理解してもらえて、受け入れてもらえるのではないかと思っていた。
相手は家族だから。記憶をなくした長男を見捨てないでいてくれた人たちだから。
その考えが甘かったことを、話してしまうまで、糸井はわかっていなかった。
幼い頃に普通でない経験をして迷惑をかけたからこそ、自分は彼らの望む姿であらねばならなかったのに。普通の人生をこれから歩んでいけることを示して、彼らを安心させることだけが、自分にできる唯一の罪滅ぼしだったのに。
そんなこともできない自分に、彼らはどれほど失望しただろう。
――おまえなんか記憶なくしたときに死ねば良かった!!
あの弟の叫びを、糸井は一日として忘れたことはない。
言われたときのままの音が、今も耳にこびりついて、たった今耳元で叫ばれたかのように鮮明に蘇ることもある。たいてい一人で自室にいるときだ。
そんなとき、どうすればいいかがわからなくなって、糸井の体は動かなくなってしまう。
体が芯から冷えていくようで、思い出せるありったけの過去の自分を全部なかったことにしたくなる。楽しかった思い出さえ、その陰で自分の存在が家族を苦しめていたと思うといたたまれなくて。
――死ね!!
言われた通りにした方がいいんじゃないかと、思ったことは一度や二度ではない。調理中、手にした包丁を見つめたまま立ち尽くしたこともある。帰りの電車を待つホームで、白線の向こう側に吸い寄せられそうになったことも。
それでも、気が迷う度に糸井を引き戻してくれるのは、いつだって糸川の存在だ。
好きだと、言葉で、行動で示してくれる。愛されていることを実感できる。三十年生きてきて初めて、それを疑いなく信じている。
この先もきっと、自分の人生にこんな人は他に現れないだろう。
そう確信できるほど、糸井は糸川を拠り所としていた。
誰にどれほど疎まれたとしても、彼さえいれば。彼さえ自分を必要としてくれれば。生きていてもいいと、許可をもらえる気がするのだ。
(……早く会いたい)
胸の携帯をぎゅっと抱き込むようにして、糸井は横向きに寝返りを打った。
夜が明ければ、糸川が会いに来てくれる。それを待ちわびる夜は、長く、暗く、そしてとても静かだった。
糸川が乗った新幹線の到着を待つ時間は嫌いではない。
改札前には同じように誰かを待つ人がいて、時計を気にしながら改札の奥を見つめている。それぞれに会いたい人を想って。
その姿は皆一様にどこか幸せそうで、誰かの目には自分もそんなふうに映っているのだろうかと考える。そうだったらいいなと思う。
到着時間が過ぎ、改札の向こうが賑やかになってきて。わっと溢れ出てきた人波の中に愛しい人の姿を見つけると、嬉しくなってどうしたって顔が笑ってしまう。
「糸川さん」
呼び掛けるより先に、糸川は糸井を見つけて同じように微笑んでくれた。
いつもは人の流れに沿って出口へ向かう糸川の元へ糸井が合流する。けれど今日は、流れを切って糸川はまっすぐ糸井の元へ歩み寄ってきた。
え、と思う間もなく抱き竦められた。ハグをされたのだと気づいたのは、囁きが耳に届いたときだ。
「誕生日おめでとう」
それだけ言って、ぱっと糸川は糸井を放した。
ほんの数秒の、公衆の面前での抱擁。周りからはきっと再会を喜ぶ友人同士にしか見えなかっただろうが、糸井の胸はひどく高鳴った。
「どうしても直接言いたかったから、メッセージ送るのも我慢してたんだよ」
得意そうに、糸川はいたずらっぽく笑う。
「今日きみを直接祝ったのは僕が最初だろ」
そう言って目を細める糸川に、糸井は無性に、抱きつきたかった。
抱きついて、泣きついて、もう自分の誕生日を祝ってくれる人なんか、糸川以外にはいないのだと明かしてしまいたかった。
カミングアウトに失敗して、家族に縁を切られたこと。もう糸川以外に寄る辺がないこと。その糸川と離れていることが、本当は寂しくてつらくて仕方がないこと。
明かしてしまえば、糸川をもっと強く繋ぎ留めることができるんじゃないだろうか。もっと深い愛を注いでもらえるんじゃないだろうか。
狡い自分が打算する。空いた穴を埋めてもらいたくて。この人ならと、甘えてしまいたくなる。
――だけど。
「……ふふ。糸川さんが一番乗りです」
理性は簡単に本音を丸めて包み隠してしまう。
だって、転勤を迷っていた糸川の背中を押したのは自分だから。
糸川には、仕事を頑張ってもらいたい。心置きなく、大阪での任務を全うしてほしい。
そう思う気持ちも糸井の中で嘘ではなくて、そのためには自分が糸川の心配材料になるわけにはいかない。
糸川が東京に戻ってきて、一緒に暮らすことができるようになるまで、波風立てず黙っておとなしく、遠距離期間をやり過ごさねば。
今は全部我慢。その後にきっと、幸せな毎日が待っているから。
「やった。じゃあ今日は張り切ってお祝いしちゃうから。美味しいもの食べに行こうね」
「えー嬉しい、期待しちゃいます」
少し離れて横に並んで、二人は一緒に歩き出す。
触れ合えるのはもう少し先。会えない日々を経た後の、このてのひら一つ分の距離がもどかしい。
糸井は下くちびるをきゅっと噛んで、繋ぎたい指先を強く握り込んだ。