愛でしかない 01


 糸川が赴任した大阪支社の企画部は、比較的二十代・三十代の若手社員が多く、土地柄もあるのかとても活気のある部署だった。
 社風も文化も違うここでうまくやっていけるのか、無表情の下で実はかなり不安だった糸川だが、本社からの出向受け入れは慣れっこになっているのか、メンバーはあたたかく迎え入れてくれた。
「糸川さん、俺は?」
 話しかけられるときに、皆が自身を指差してクイズのように問う。名前を当てろというのだ。
 最初の自己紹介で糸川は、顔と名前を覚えるのがとても苦手だから間違えても容赦してほしいと伝えていた。それ以来、糸川が名前を覚えているか、確認を入れるのがネタとして定着している。
「えー……、あ、上山くん」
下山しもやまです!」
「あーごめん外した」
「俺だけ覚え悪ないです?」
「え、そんなことないよ。あ、そういえば下村くん」
「下山です!!」
「しゃあないやん、糸川さん名前覚えんの苦手なんやから。許したり、高橋」
「しーもーやーま!! いっこも合うてへんやん。誰や高橋」
 そんなやり取りでひと笑いするのも恒例になって、自然と糸川は異動先にも馴染むことができていた。
 そんな同僚たちが、今夜は糸川の歓迎会を開いてくれるという。赴任後、しばらくは外出も多くてバタバタしていたので、もう四月も半ばを過ぎての開催だ。
 わざわざ自分のために金曜の定時後に開催してもらうのは申し訳ないと、糸川は一度断ろうとしたのだが、このメンバーは普段から飲み会が多く、今夜も糸川の異動にかこつけて自分たちが飲みたいだけなのだと課長は呆れたように笑っていた。
「もー、また俺にカンパせえ言うんやろ。おまえらの飲みに毎回つき合うとったら、小遣いなんぼあっても足りひんでほんま」
「毎度! あざーす!」
 課長の財布から万札を遠慮なく受け取った本日の幹事は、最寄り駅近くの居酒屋を案内してくれた。
 がやがやと賑やかな店内には、当然のように虎柄のモチーフや某プロ野球球団グッズが飾られている。シーズン開幕から勝率が高いこともあり、その話題で盛り上がっている客たちの表情は明るい。
「糸川くんって野球とか観るん?」
 ビール片手の課長から話を振られて、糸川は首を傾げた。
「いや、スポーツ自体、僕あんまり詳しくなくて。試合の観戦とかほとんどしたことないですね」
「そうなんや。あー、けどあれやで、阪神戦は結果だけでもニュースとかでチェックしといた方がええで。どこで話題振られるかわからんからな」
「そうなんですか」
「仕事は人脈やろ。共通の話題持ってな、いざ会話始めようにも弱いからな」
「はあ、なるほど」
 確かに円滑に業務を進める上で、人脈は軽視できない。夜のニュースチェック時にスポーツの結果も注視しておかねばと、頭の中に書き留める。
 と、座敷で隣に座っていた課長との間に、突然ストッキングの足が割り込んできた。
「はいはいはい、課長ちょっと向こう詰めて。おっさんのコミュニケーションにつき合わんかてええんですよ、糸川さん若いんやし。若いもん同士で喋りましょ」
 割り込んだ女性はそのまま糸川の隣に座り、反対側にはもう一人、ジョッキ片手の若い女性がやって来た。
 これは来るな、と糸川は身構える。
「糸川さんって結婚してはるんですよねー。指輪してはるし」
 やっぱり来た。
「結婚何年目? 奥さんどんな人なんですか?」
 歓迎会の主役は糸川、異動間もない酒の席、身内同僚だけの無礼講、となればプライベートの質問攻めに遭うのは想定の範囲内だ。
 糸川は敢えて左手薬指の指輪を見せつけるように掲げた。
「実は籍は入れてないんです。事実婚みたいな形で。しかも新婚なんですよ。決まってすぐに転勤の話が来ちゃって、別居婚状態なんですけど」
「えー、新婚やのに単身赴任って! 課長、うちの会社どないなってんの!」
「奥さんもめっちゃ寂しいやないですかー。行かんといてって言わはりませんでした?」
「それが、仕事は僕にとって大事なんだから頑張ってほしいって、送り出してくれて」
「えー、めっちゃ健気ー!」
「めっちゃいい奥さんやーん! なんで籍入れはらへんのですか?」
 やっぱりそれも訊かれるかと、糸川は用意していた微笑みをぺったりと貼り付ける。
「宗教上の理由で」
 そう言ったとたん、前のめりだった女性たちの勢いがすっと引く。
「……へぇー」
「そうなんやぁ……」
 あ、コレ触れたらあかんやつや、という視線が二人の間で交わされて、示し合わせたように二人が同時に腰を上げた。
「ほな糸川さん、飲んでくださいねー」
 そそくさと二人は席を離れ、やれやれと糸川は肩を回す。
 いつだったかネット記事で見かけた、深入りされたくないときには『宗教上の理由』と言っておけば大抵何とかなる、というライフハックが役に立った。世の中にはいろいろあるのだ。
 ふと見回すと、隣から移動させられた課長はもう別で飲んでいて、女性たちが陣取った両隣は空いたまま。解放された気分で、糸川はやっと落ち着いて飲めるとグラスを持ち上げた。
「ふふっ」
 そこへ上から含み笑いが聞こえ、糸川は声のした方向を見上げた。糸川の右隣の空間の後ろに、サワーのグラスを持った男が立っている。
「ここええ?」
 訊かれて、どうぞと座布団を指し示す。座ってきたのは、確か同い年の、まゆずみ奈月なつきという男性社員だ。
「『宗教上の理由』とか、質問シャットアウトするときの常套句やん」
 くせっ毛なのかパーマをかけているのかよくわからない軽薄そうなウェーブヘアをふわふわと揺らして、黛はくすくすと笑う。
「宗教やなくて、法律上の理由やったりして?」
 笑いながら声をひそめた黛を、糸川はすっと瞼を半分下げて見据えた。
 ……なるほどね。
 瞬時に察して、心で呟く。どうやらお仲間のようだ。
「黛さん、ですよね」
「お、正解ー。でもサンとか敬語とかいらんよ。同いやし」
「じゃあ……、黛くん」
「はは、堅いなぁ」
 黛は座卓に頬杖をつき、その反対の手を、座卓の陰で胡坐の糸川の膝に載せてくる。
「糸川くんはさぁ、彼氏と長いん?」
 内緒話の声量ではあったが、そんな話をこんな場で仕掛けてくる黛の気が知れなくて、糸川は眉を顰めて膝に置かれた手を払いのけた。
「……きみは職場に公表してるの?」
「まさか。同類以外にはクローズやで」
「じゃあこんなところでそんな話はしない方がいいんじゃないの」
「誰も聞き耳立ててへんて」
「僕はそういう軽率な乗りは好きじゃない」
「……ほんま堅いな」
「別に僕はどうしても隠したい方ではないけど、相手があることだし、話すにしても相手はちゃんと選びたいだけだ」
「ふぅん……ええなぁ奥さん、大事にされてて」
 羨ましそうに呟いて、黛は口を尖らせる。
「……俺、最近恋人と別れてん」
「へえ」
「寂しゅうてさぁ。心身ともに。主にカラダが」
「そう」
「糸川くんも奥さんと離れて寂しいんやったら、こっちで一緒に遊ばへんかなーって思ったんやけど」
「お断りします」
「はは、そんな感じやなぁ」
 残念そうに笑って、黛は振り払われた手でグラスを握った。
「……なんで俺は、大事にしてもらわれへんのやろ」
 寂しげに目を伏せる黛の横顔は、決して華やかな造作ではないけれど、あっさりとした万人受けしそうな整った顔立ちだ。好みが分かれる感じでもないから、普通にモテそうな気がする。今までもこんな風に声をかければ、成功率は高かったのだろう。
 けれどだからこそ、一途な恋愛には発展しにくかったのだろうことも容易に想像がついてしまう。
「ほとんど初対面みたいな相手をそんなに雑に口説いて、それに引っかかるようなやつとしか付き合わないからじゃないの」
 敢えてすげなく言ってやると、黛はグラスに口をつけたまま、目を丸くして糸川を見返した。
「ご尤も!」
 そう言った黛は、やはりどこか寂しそうに笑った。