「あれ」
テントに戻った早々、岬の姿に気づいた小林が声を上げた。
「どしたの岬ちゃん、やられちゃった?」
「はあ、ちょっと着替えに行ってました」
だいぶ水気の切れた髪をタオルでこすりながら、岬は苦笑する。
「あ。そのジャージ、紘介の?」
小林は岬と、その後ろでむっつりと黙っている萱島とに向けて問うた。
「はい、着替えなかったんで貸してもらって」
答えた岬は、内心で少々驚く。小林と萱島が同期だとは知っていた。しかし二人が話をしている姿を岬は見たことがなく、名前で呼ぶような仲だとは思いも寄らなかった。
岬をチャン付けで呼ぶ小林は、身長はおそらく萱島よりも少し低いくらいだが、日本人の平均を考えれば充分長身の部類に入る。眦が少し下がった目元に親しみやすさがあり、少々あっさりしすぎている感もあるがそれでも美形だ。いつもニコニコと愛想が良く、萱島とは対極的な印象がある。萱島と比べるとやや地味だが、いかんせん萱島の顔立ちが派手すぎるのである。
その小林が、さりげなく岬の傍に寄り、ジャージの上着のジッパーに手を掛けた。
「おい」
触るな、とでも言いそうな勢いの萱島がやっと口を開くが、小林は意に介さず、苦笑気味にくちびるを曲げてそのジッパーを首元まで引き上げた。
「暑いかもしれないけどごめんね。岬ちゃんセクシーすぎて、おじさんたちにはちょっと刺激が強いのよ」
「はあ…?」
頻発する小林のオネエ言葉は彼の気さくな人柄として慣れているが、言われたことが岬には理解できない。誰がおじさんたちで、何が刺激だというのか。
わからない顔で首を傾げた岬の後ろで舌打ちをした萱島に、小林は含み笑いを向けた。
「もうすぐリレーだねぇ。頑張ってね、アンカー」
「はい」
嘘のない岬の笑みに、小林は目を細める。
「俺も初任の年にアンカー走ったんだよ。ギリギリ5位でセーフだったんだけど、後で聞いたら、その当時別れたばっかの彼女の顔写真をばら撒くつもりだったらしくてねぇ」
「うわ、えげつないですね!」
「でっしょー。だから岬ちゃんも頑張りなよ、何も思い当たることがないと思ってても、あいつらどっからか必ずネタ掴んでくるから」
用心深く頷いて、自分ならば何を暴露されるだろうかと岬は考えた。
(…別れた彼女がもう結婚してた、とか?)
単なる回想に律儀に凹み直して、岬は頑張ろうとあらためて思った。
そこへ、リレー出場者の召集アナウンスが入る。
「あ、ほら。行っておいで」
「はい、頑張ります!」
小林に背中を押され、岬は他の出場者と共に招集ゲートへ向かって歩き出した。他の教員を鼓舞する岬の後姿が、徐々に遠くなる。
「まーったく、かわいいねぇ岬ちゃんは」
その姿を見送りながら、小林はむすっと突っ立ったままの萱島に笑いかけた。萱島は小林を相手にする苛立ちの上にヤニ切れまで手伝って、相当機嫌が悪い。しかし体育祭の会場で堂々と喫煙するわけにもいかない。
「大事にしちゃってー」
「悪ィかよ」
唸るように言う萱島の耳に、小林はニヤニヤと口を寄せる。
「まだまだ全然、手出してないんでショ?」
「……」
「ぐずぐずしてると俺がもらっちゃうよぉ?」
クスクスと笑いをもらす小林を、萱島は無言で思い切り睨みつけた。
やがて直前の競技も終了し、入場ゲートからリレー選手たちが入場を始める。こうなったらもう取材班の妨害工作の心配もない。
その岬が、萱島たちの方へ戻ってきた。何のことはない、奇数走者の待機場所は教員テントのすぐ隣なのだ。
「あー、なんか緊張してきた」
萱島の横で体をほぐす岬が呟く。そのまだ湿った頭を萱島の手がくしゃくしゃと撫でた。
「ま、頑張れ」
思いがけず萱島から励まされ、岬は満面の笑みで頷いた。
「ヨーイ、」
パン、と本部前でスターターが鳴らされる。11名の選手が同時にスタートするものだから、直後は激しい混戦となる。しかしバトンが第2走者に渡ると、選手たちは縦長の列をなした。この時点で、教員チームは4位。ほとんど毎年のようにリレーに駆り出される駿足の教員たちは、バトンリレーも手馴れていてスムーズだ。
しかし第4走者で、5位から上がってきた生徒と接触。バランスを崩してもろともに倒れ、10位に後退した。
「あぁっ、児島先生!!」
教員テントから、悲痛な叫びが走る。
『現在トップは6組、続いて2組。最下位は先ほど転倒した9組で、今年も注目の教員チームがその前を行っておりますが…おそらく上位5チームに食い込むのは無理でしょう!』
放送部による嬉しそうなアナウンスが癇に障るが、誰の目から見てもそれは事実のようだった。
「無理そうだとよ」
萱島が視線を投げると、岬はきつい視線で戦況をじっと見つめている。その手が強くハチマキを締め直し、そういえばコイツは結構な負けず嫌いだったか、と萱島は思い出した。
「お前、何かスポーツやってたの?」
「高校・大学と水泳部でした」
「水中かよ…陸上で動けんのか?」
軽く揶揄する声に、第7走者がバトンを受けたのを見取って走路に進む岬が振り返って微笑んだ。
「大丈夫」
自信に満ちた表情に、驚いて萱島が目を瞠る。
「僕、陸上部より足の速い水泳部員でしたから」
そう言って、岬は体操服姿の生徒たちに混じって位置につく。服装がジャージでさえなければ、生徒の中に紛れていてもわからないような雰囲気だ。
徐々に接戦の第8走者が近づいてくる。転倒した後、教員チームは8位に順位を上げていた。
そして、全バトンがアンカーに渡ったとき――全員の視線は岬に向けられた。
速い。
「キャーッ、守谷先生ーっ!!」
教員テントからも、女性教員の黄色い歓声が上がる。
あまり必死で走っているようには見えない大きなストライドで、岬は前を行く生徒にぐんぐん追いつき、追い越していく。見る間に岬は2人を抜き、教員チームは6位に浮上した。
『うわ、3組頑張れ、抜かれる、抜かれる!』
こうなるとアナウンスも1位はそっちのけで、現在5位の3組の応援になる。
そして――岬の胸がゴールラインを超えた。
『恐るべき駿足、守谷先生! しかしあと一歩及ばず!!』
結果は、紙一重の6位。
きゃあきゃあと女子生徒に囲まれながら、岬はあと10メートルあればなぁ…と息を乱して踏みつけにされたゴールテープを振り返った。
予想外の足の速さを見せた岬が散々周囲から驚嘆と賞賛の言葉を浴びせられたあと、日も傾きかけたグラウンドでは厳かに閉会式が始まっていた。
ナントカ賞、ナントカ賞、と名前の付けられた賞が、受賞クラスの代表者へと手渡されていく。岬も受賞クラスへ、あたたかい拍手を送る。
そしてその最後に、組別対抗リレーの表彰になる。1位、6組。2位、2組。3位、7組。その表彰をぼんやりと聞きながら、一体何を暴露されるのだろうと、岬は校舎の屋上でスタンバっている取材班を見上げた。
そして。
『それでは皆さんお待ちかね、緑翠高校体育祭の伝統イベント、今年の教員チームアンカー守谷先生の暴露ネタは、これだーッ!!』
煽りに煽るアナウンスのあと、屋上から大量のビラが降ってくる。後始末が大変だろうなぁ…と岬が眺めているうちにも、落ちてくるビラに向かって、それまで整列していた生徒たちが我先にと殺到した。
「お前は行かないの?」
隣の萱島が問うが、もう岬にはそんな元気はない。
「あとで…」
誰かに見せてもらいます、と言いかけたところに、ビラを手にした生徒たちの間で俄かにどよめきが走る。一瞬後、女生徒たちの黄色い悲鳴が一斉に上がった。
「きゃーーーーっ!!」
「守谷先生って…!」
「えー、だから毎年体育祭は見に来ない萱島先生がいるのぉ!?」
「そういえばあの二人、いっつも一緒にいる気がするぅ!」
そんな言葉が口々に叫ばれ、一体ビラに何が載っているのかと、後で見るつもりだった岬にも不安と共に興味が沸く。
そこへ、折りよくひらひらと落ちてきたビラを萱島が空中で掴んだ。それを見た萱島がぷっと吹き出し、それを岬に差し出す。
「ほらよ」
「……?」
ビラを受け取った岬は次の瞬間、絶句した。
載っていたのは写真。それは萱島と岬が相談室にいる時のショットで、そのアングルの写真だけ見ると二人は、キスをしているようにしか見えない。
「こっ…これっ…」
「こないだお前のコンタクトがずれたっつーのを見てやってたときだろうなぁ。いつの間に撮ったんだこんな写真」
「ああ、あのときの!」
記憶を探って、岬は納得する。しかしこの期に及んで親しげに話す二人を、生徒たちは一歩引いて遠巻きに見つめている。
「えっ…? あ、ちっ…」
その視線の冷たさと場の静けさに気づいた岬は、おそらくわざとやっているのだろう、肩に回された萱島の腕を振り払い、
「ちがーーーーーーーーーーーーう!!!」
夕日に赤く染まりかけたグラウンドには、岬の絶叫が虚しく響き渡った。
<END>