愛と陰謀の体育祭 -前編-


 校舎裏に、バケツをひっくり返したような水音が響いた。
 ような、ではない。本当にひっくり返したのだ。しかも、故意に。
「…………」
 水の滴る前髪が暖簾のように視界を覆って、しばらくは自分の置かれた状況を飲み込むこともできず、岬は呆然と立ち竦んだ。
「先生、ごっめーん」
 階上のベランダから、きゃははっ、という女生徒の笑いとバケツの投げ置かれる音が聞こえた。
「……お…っ前らなぁ……」
 髪をかき上げながらベランダを見上げると、そこには既に人の姿はない。
「部長からの指令なの、悪く思わないでね~」
 声だけが、おちょくるように響いてくる。
 ずぶ濡れの岬はジャージの裾を絞りながら、こういうことか、と呟いて盛大にため息をついた。


 本日は緑翠高校の体育祭の日である。
 緑の多い広いグラウンドには白いテントが立ち並び、スターターの破裂音と賑やかな歓声が響いている。守谷岬も、その会場にジャージ姿でいた。
 体育祭の演目も半分が終わり、少しずつ岬の出番が近づいてくる。最終種目の組別対抗リレーに、岬は教員チームのアンカーとして出場することになっているのだ。
 組別対抗リレーは、1年生から3年生まで、10クラスずつあるその組ごとに縦割りのチームを作り、そこから各学年から3名ずつ、計9名の選手を出す。教員も同じように9名の代表を選び、生徒の10チーム+教員チームの計11チームが、1周200メートルのグラウンドを一人半周ずつ、アンカーだけは120メートルで、バトンリレーを行う。
 そのリレーが、この体育祭最大のメインイベントなのだが、同時に別の意味でも、生徒たちの関心の的になっている。そしてまた、その関心は今年は、主に岬へと向けられている。
 どういう意味なのかというと。
 毎年、教員チームのアンカーは体育祭の1ヶ月以上前には決定し、発表される。そして活躍するのが、この学校伝統の新聞部と写真部が合同で結成する最強取材班たちである。
 この取材班たちは体育祭までの1ヵ月、教員チームのアンカーについて徹底的に調べ上げる。交友関係や私生活、果ては学生時代の成績まで。そして必ず、何らかの特ダネを準備してくる。
 そして体育祭当日、リレーの結果教員チームが上位5位以内には入れなかった場合、閉会式にてその特ダネが暴露されるのである。
 一昨年は体育の男性教員がその被害に遭い、高校時代の凄惨な通知表をビラにされてばら撒かれた。
「いいんだよ俺は、体育の教師なんだから、数学ができなくたってよ…」
 そう言ってその後の後ろ指を差されまくる学校生活を語ってくれた体育教師は、どこか哀愁が漂っていた。
 もちろん取材班の方も必死である。特ダネは、発表する場を得てこそ価値がある。何とかして教員チームを上位5チームに入れさせないよう画策するのだ。
 しかしスポーツマンシップに則り、競技中の妨害は御法度である。そこで、取材班による妨害工作はリレーの前までに行われる。
「守谷先生も気をつけてくださいね、ふと気づいたら靴がなかったりしますから」
 経験者の助言により今日は朝からだいぶ気をつけていたはずなのだが、やられてしまった。
 数週間前から、相談室に通ってくるようになった、心因性の過呼吸で困っているという女子生徒。今日も急に発作が起きたと、その子の友達に引っ張られて連れられた校舎裏で、岬は頭から水をかぶったのだ。呼びに来た友達は、水濡れの茫然自失から我に返ったときには姿を消していた。
 過呼吸で相談してきていた生徒まで取材班のサクラだったのではないかと、軽い人間不信になりながらとぼとぼと岬は相談室へ戻った。そのロッカーに、念のためと持って来ておいた替えのジャージとTシャツがあるはずなのだ。
 が。
「――ない」
 ロッカーを開けてすぐのところに紙袋に入れていたはずの着替えは、袋ごとごっそりなくなっていた。
「これ…ちょっとしたいじめだよな…」
 いよいよちょっぴり悲しくなって、岬は床にへたり込む。
 と、その隣室から物音が聞こえた。
(あれ…萱島先生、在室中? …そういえば救護テント、救護室の先生しかいなかったような)
 こんなときに萱島を頼るのは非常に癪だったが、へたり込んだ床にぽたぽたと水滴が落ちて水溜りを広げているのを見つめ、仕方なく岬は立ち上がった。
 コンコン、とノックをすると、相変わらず愛想のない声が「はい」と応える。保健室のドアを開けると、ちょうど振り返ったデスクの萱島が、岬の姿に驚いたように瞠った目を留めた。
「おま…どーしたよそれ?」
「油断しました」
 苦笑した岬の元へ、棚からバスタオルを取って萱島は駆け寄った。
「あーあー、いくらまだ暑いったってよ」
「何か着るもの、貸してもらえませんか。用意してた着替えまで隠されちゃったみたいで」
「だから用心しろって言っただろ、毎年これでアンカーはひでー目に遭うんだから」
 事情を知っている萱島が、岬の頭をがしがしと拭きながら呆れる。
「着替え、この後走るならジャージがいいか。ちょっとお前にはでかいかもだけど。でもTシャツは今は置いてねえな」
「あ。じゃ直にジャージ着ちゃってもいいですか? 洗って返しますから」
「…いいけど」
 ちら、と萱島の頭に『裸ジャージ』という言葉が浮かぶ。それはさぞ見る甲斐のあるものだろうと、萱島はロッカーの棚から置きっ放しで着る機会のないジャージを取り出した。
「ほら」
 渡そうと振り返ると、仮眠スペースのカーテンに隠れるでもなく、岬はその場で濡れたジャージの上着を脱ぎ、その下のTシャツも頭から引き抜こうとしていた。
「あ、ありがとうございます」
 上半身裸になった岬が、腕を伸ばしてジャージを受け取る。その白い胸に浮かんだ二つの淡い紅色の円に釘付けになろうとする視線を無理やり引き剥がして、萱島は岬に背を向けるようにして再びデスクについた。
 まったく、これだから警戒心の薄いノンケは始末が悪いのだ。
(犯すぞコラ…)
 そんな萱島の心情など露ほども思い及ばず、ジャージに多少撥水性があるお陰で下着に被害がなくてよかった、などと安堵しながら岬は着替えを終えた。
「すいませんでした、じゃ僕戻ります」
「おい」
 やや長い袖や裾を捲って部屋を辞そうとした岬に、椅子を回転させて振り返った萱島が声をかける。
「担任持ってない教師はどこで待機してんだ」
「? 本部テントの横ですけど。今から僕も戻ります」
「そこに数学の小林いたか?」
 この学校の教員には小林が3人いる。一人は国語科の女性で、数学科と地歴科に男性。
「はい、おられましたけど」
「じゃあ俺も行く」
 むっとした表情の萱島に並ばれて、二人でグラウンドに戻ることになった。
「小林先生に何か用でもあるんですか?」
「いや」
「じゃあなんで…」
「べつにいいだろ、俺が行ったって。どうせ最後の方になったら、お前の勇姿を見に出るつもりだったんだからよ」
 イヤそれは見なくていいんですけど、と岬が口を窄める。
 暑いからとややはだけた胸元から覗く白い肌を直視しないようにしながら、そういえば靴の替えはあるんだったと相談室へとんぼ返りする岬に、萱島はため息混じりにつき合った。