岬は保健室のドアの前に立ち、右手の中指の関節を二度ぶつけた。そのノックの音は室内に響いているはずなのに、中からは何の応答もない。
いないのかな、と思い、岬は引き戸に手をかける。するとそのドアには施錠はされておらず、からからと軽い音を立てて開いた。
「失礼しまーす…」
呼びかけながら恐る恐る中を覗き込むと、向かって左側には仕切りの白いカーテンを隔ててベッドが並んでおり、正面にある窓は細く開かれていて、同色のカーテンが頼りなく揺れていた。
そして向かって右側には薬や本の並んだ棚があり、その下には手当ての時に使うのだろう椅子が二つ、更にその向こうに、デスクに突っ伏した白衣の背中。
(…え?)
岬は室内に足を踏み入れ、どう見ても男にしか見えないその白衣姿へ近寄った。
「あの…」
デスクで眠りこけている男に呼びかけた岬は、一瞬息を呑んで思わずその寝顔に見入ってしまった。
長髪というほどではないが少し不精をして伸びっ放したような色素の薄い髪の下で、閉じられた睫毛の長い瞳、筋の通った鼻、薄い唇。恐ろしいほどに整った顔立ちをした男は、ちょっとびっくりするくらいの美青年だったのだ。
(うわ…)
まじまじと覗き込んだ岬の気配に気づいたのか、閉じられていた瞼が不意に上がる。
「あっ」
「……」
思わず声をあげた岬を、男はデスクに伏せたままじろりと見上げた。
「すみません、あの、養護の萱島先生を探してるんですけど」
「…お前ダレ?」
初対面でいきなり岬をお前呼ばわりした男は、目覚めればその切れ長の瞳は人を寄せ付けないような威圧感があり、高圧的な態度も手伝って、普通の人ならばその美貌に気づくより先に萎縮してしまうのではないかと岬は思った。
「えっと、僕は本日付でこちらに赴任してきました、守谷岬といいます。心理相談員として、養護の萱島先生にご挨拶に伺ったんですが」
岬の自己紹介に、男はようやく体を起こし、顰めていた眉を上げた。そしてデスクの上に無造作に置かれていたリムレスの眼鏡をかける。
「ああ、お前か隣の相談室の。なんか字面見て、宗谷岬みてぇって思ったんだよな」
「…守谷です」
「もう聞いたよ」
退屈そうに言って、男は白衣の胸ポケットから煙草を抜いて手馴れた手つきでさっと火をつけた。
(おいおい、保健室で喫煙かよ…。ここは教師の休憩室なのか?)
呆れは顔に出さないよう、岬は目の前の白衣男は理科系の教師なのだろうと決め付けて煙を避けた。
「で、あの」
「ああ?」
「養護の萱島先生は、どこに」
「…は?」
男は指に煙草を挟み、怪訝そうに顔をしかめて盛大に煙を吐きかけた。
その馬鹿にしたような、何を言っているんだと言わんばかりの表情に、岬もまさかという気はした。したが、それよりも『美人の萱島先生像』を先に作り上げてしまっていたがために、信じたくないという思いの方が勝った。
「俺だよ、萱島紘介」
だから、それを聞いたときには、やっぱり、のような、ウソ、のような、複雑な思いが一気に押し寄せてきて、岬の全身の力を失わせたのだった。
(養護教諭って…普通女だろ…)
小学校から高校まで、岬の通った学校の養護教諭は皆女性で、特に中学校のときの養護教諭はまだ20代半ばの若い美女だった。思春期に足を踏み入れたその頃の印象が強かったゆえの、それは単なる思い込みだった。
脱力しきった岬の前で、萱島はのんびりと立ち上がり、窓際に歩み寄って細く開かれていた窓を開け放った。岬への気遣いなのか何なのか、煙は律儀に外へ向かって吐き出している。
「それにしてもお前も気の毒になー、新任だからってめんどくさいもん背負わされてよ」
「え…?」
「心理相談員なんて、楽しいもんじゃねぇぞ?」
言いながら萱島は、窓の桟に両肘をかけて岬を振り返る。
「最近の高校生なんざ、礼儀は知らねぇわ辛抱はきかねぇわ、子どもがそうなら親だってわけわかんねぇのばっかだしな。理解不能の地球外生命体だ。お前そんな弱っちぃなりでエイリアン相手にやってけんのか?」
完全に馬鹿にしたような口調で言う萱島を、さすがにむっとして岬は睨み上げた。
そして気づく。174センチの岬が見上げるほど、萱島の背が高いことに。
これだけ顔も良くて背も高くてとなればそりゃあさぞかし自信もあるだろうと萱島の傲慢不遜な態度に納得もするが、同時に同じ男としての矜持をちりちりと焼くものを、岬は感じた。
「…受けたからにはちゃんとします」
睨み上げたまま低い声を出すと、萱島はおちょくるように片眉を上げる。
「へぇ。見た目にそぐわず意外と芯が太いのねー。そのカワイイお顔を武器に、先輩の俺に助けでも求めに来るかと思ったのに」
「……」
年上の女性相手には武器にもなり得る優男然とした童顔だが、それは一方で男としての岬にとってはコンプレックスでもあり、しかもこんな『完璧な』男を前にすればその劣等感は否応なく煽られる。
けれど確かに初めて勤める教員、そして心理相談員としての仕事に不安がないといえばそれは嘘で、おそらく少なからず助けを求めることにもなるであろう先輩の萱島を前に、岬は俯いて頬の内を噛んだ。
「…別に萱島先生を頼りきりにするつもりはありませんけど」
小さく息をついて気を落ち着けて、岬は目を伏せた。
「でもやっぱり僕だけじゃ対応に行き詰まることもあると思うので、そのときには助けていただきたいと思います」
よろしくお願いします、と岬は頭を下げる。
それを見て、萱島はにっと口角を上げた。
「か…っわいいなぁ、お前ホント」
その声に、岬もハ? と顔を上げる。
「いや、最初に起きたら目の前に好みの顔があって、それが後任の相談員とか言うからラッキー役得! とか思ったんだけどよ。性格まで俺の好みかよ。そーゆー、きっちりプライド持って仕事できて、なおかつ自分の力量過信しない奴ってすげぇ好きなんだよ俺」
「…は、はあ…」
どうやら誉められているのだろうかと愛想笑いを浮かべる岬の肩に、だからよ、と萱島は右手を置いた。
「お前、俺とつき合え」
「………は?」
買い物に、とか麻雀に、というつき合えならば幾度となく大学の友人から言われてきたが、『俺と』つき合えという言われ方はついぞされたことがなく、意味をつかみきれず岬は固まった。
そんな岬に苛ついたような、それともひょっとしたらただ照れているだけかもしれない表情を浮かべ、萱島は髪を掻き上げた。
「だからー。何度も言わすな、この歳で告白なんてこっぱずかしい。俺の恋人になれっつってんの」
「…はぁ!?」
そこまで言われて、ようやく岬は、目の前の萱島が昨今流行のゲイという人種であることを悟ったのだ。
「無理です僕男の人とか好きじゃないんで!!」
「試したこともねぇのに食わず嫌いしてんじゃねぇよ。とにかく俺は決めたからな、お前を落とすぞ」
「絶対落ちません!!」
「まー見てろ、1年だ。1年以内に」
唐突に、萱島は人差し指で岬の唇に触れた。
「絶対落としてやる」
どこから湧いてくるのかわからない自信に満ち溢れた美貌に嫣然と微笑まれ、ちょっとドキッとしたのは内緒だが、我に返って再び落ちませんと絶叫した岬は、少々の困ったことがあってもなるべく萱島には相談するまいと、心の内で誓ったのだった。
<END>