強く、風が吹いた。構内に植えられた木々がザワ、と鳴る。
それとほぼ同時に、前を歩く教頭の髪が不自然な動きを見せて、岬は驚きの声を慌てて飲み込んだ。
「いやぁ、今日は風が強いですねぇ」
教頭は必死で七三に分けた髪を撫でつけるふりをしながら引きつった笑みを浮かべてズレを直し、その悲壮な姿に俄かに教頭が気の毒になって、岬は何も見なかったことにして笑みを返した。
「すごく、いい教育環境ですね。緑が多くて」
第2校舎と第3校舎の間の渡り廊下から中庭を眺めながら、岬は教頭の斜め後ろをゆっくりと歩く。
学校の設備は、校舎にしても体育館にしても図書館にしても、さすが私立、とため息が出そうなほどに金がかかっているのが見受けられる。今ここから見える中庭に設えられた仰々しい噴水も、公立育ちの岬には非常に目新しく映った。
本日付で守谷岬が生物科講師兼心理相談員として赴任してきた私立緑翠高等学校は、市街地からは離れた閑静な郊外にある、進学校としては中の上程度の高校だ。男女共学、1学年400人、1クラス約40人、普通科6クラス、国際科2クラス、音楽科2クラスに分かれている。卒業生たちは特に一流大学ばかりへ進むというわけではないが、授業を成立しなくさせるほど羽目を外す生徒もいない。
ごく平和な、落書きも破損もない校舎には、今はまだ春休み中のため生徒の姿はほとんどない。特に、今岬たちが足を踏み入れた第3校舎には特別教室ばかりが入っているため、廊下はひっそりと静まり返っていた。時折3階の音楽レッスン室から、金管楽器の長く伸びる音が聞こえてくるだけだ。
「環境はいいですよ、少し田舎ですけどね。生徒も、今の十代の平均と比べれば、みんな素直でいい子です」
それが誇りだというように、教頭は笑った。教育困難校も経験してきたという教頭の言うところの『十代の平均』がどんなものであるかは容易に想像がついて、岬は苦笑を浮かべる。
ふと、教頭は『進路指導室』というプレートの掲げられた部屋の向かいで立ち止まった。そして手にした鍵の束から1つを選び、施錠されたドアを開けた。その部屋のプレートには、『心理相談室』と書かれている。
「ここが守谷先生に駐在していただく相談室です」
案内された部屋は、あまり利用されている気配のない、殺風景な白壁の空間だった。10畳ほどの部屋の隅にデスク、間仕切りを挟んでこちら側に応接セットが一組、奥には本棚。ブラインドのかかった窓が大きく取られており、電気がついていなくてもかなり明るい雰囲気ではあった。
「内装は好きなように変えていただいて構いません。必要なものがあれば用意もしますし、持ち込んでくださっても結構です」
ニコニコと説明を加えた教頭に、ありがとうございます、と岬は頭を下げた。つまりその一室は、岬の城にしていいらしかった。
最近、ほとんどの私立中学校では、常駐であったり巡回であったりの差はあるものの、スクールカウンセラーを置くようになっている。そしてスクールカウンセラー事業の展開にともなって、公立中学校、さらには公立高校も、スクールカウンセラーを設置する傾向にある。その中にあって緑翠高校は、昨年まで専任のカウンセラーを置かず、手の空いた教員が週1で相談室に滞在するという程度でまかなっていた。しかし父兄からその遅れを指摘され、来年度からは専任のスクールカウンセラーを置くことを決めているのだが、今年度をどう凌ぐかが問題だった。そこで岬に白羽の矢が立ったのだ。
岬はこの春大学を出たばかりで、緑翠高校へは講師採用で入ってきた。生物科教員若干名、という募集要綱を見てダメ元で受けた私立高校での合格を岬自身も不思議に思っていたのだが、何のことはない、決め手は岬が大学で臨床心理を専攻していたことだったのだと後で聞かされた。専攻したからといって学部生でどれほどの実績がというと知れているのだが、要は場つなぎの1年間、多少ハクのついた教員が常駐することで父兄を納得させることができればそれでいいのだ。
そんなこんなでこの1年間、岬には担任もないし、担当授業数も比較的少ない。こんなことでいいのだろうか、とも思うが、とりあえず自分が身を置くこの状況でできる限りのことをしようと、岬は生真面目に決意を固めた。
「本当は若い先生にこそしっかり担任を持ってもらったり、授業を持ってもらったりして、生徒と親しんでもらうのが一番だと思うんですけどねぇ…」
面倒を押し付けました、と心底すまなそうに言う教頭に、この苦労人の教頭は教員や生徒の味方なのだろうと判断して、岬はイイエ、と微笑んだ。
先ほど紹介された職員室の雰囲気も、転勤のない私立校ならではの和気藹々とした、それでいて馴れ合いは好まないドライな感じが岬の肌には合った。決して悪くはない職場だ。
「やりようによっては相談室でも十分生徒とは接することができると思いますし。僕なりに色々考えて、1年間頑張ってみようと思います」
「そうですか。期待してますよ」
やる気を見せた岬の肩を、安心したように教頭はぽんと叩いた。
「何か困ったり行き詰まったりしたことがあれば、この隣が保健室ですから、養護教諭の萱島先生に相談されるといいですよ」
「萱島先生、ですか」
「ええ。2階の救護室にももう一人養護の先生はおられますけど、去年まで、実質生徒の相談事は萱島先生が受けておられましたから。週に1回教員が相談室にいたところで、利用する生徒なんてほとんどいなくてねぇ。結局養護の先生の方が相談しやすいみたいなんですよ。それで萱島先生は、新卒で赴任していらしてから4年間、ずっと生徒の話を聞いてくださってたんですよ」
「そうなんですか…」
岬は心理相談員としては先輩に当たる萱島という養護教諭に想像をめぐらせた。
新卒で赴任して4年、ということは岬よりも4つほど年上だ。そして養護教諭ということは女性だろう。相談しやすいということは聞き上手で優しくて、ひょっとするとすごく美人だったりするのかもしれない。そんな女性と、心理相談のことで話しているうちに、個人的に親しくなれるかもしれないわけだ。
(役得かも……)
「守谷先生?」
そんな不埒な思いが顔に出ていたのか、怪訝そうに教頭に顔を覗き込まれて、岬ははっと顔を引き締めた。
「あ、いえ、すみません」
「萱島先生、今日も出てこられてるはずですよ。私はちょっと教頭室に戻りますが、挨拶でもしていらしたらいいんじゃないですか?」
「あ、そうなんですか」
岬は、ラッキー! という思いを顔に出さないよう、冷静を取り繕って小首を傾げて見せた。
自慢ではないが、岬はそれなりに整った顔立ちをしている。22歳には見えない童顔なそれはいつも年上の女性からの受けは良く、細身で小柄には見えるがそれでいて身長は174センチと低くはない。ここでこちらから挨拶に出向けば、好印象を得られることはまず間違いないだろう。
「じゃあ僕、挨拶に伺ってみます」
「そうですか。じゃあ相談室の鍵は預けておきますね、帰るときには必ず施錠して、職員室のホルダーに戻すようにしてください」
「わかりました」
そうして相談室の前で教頭と別れると、岬は踵を返し、スーツのネクタイを締め直しながら隣室を振り返った。