A man, who is me.


(綺麗な夜景…)
 高層ホテルのレストランで、スーツ姿の柴崎亜弓は何を考えるともなく頬杖をつき、窓の外に広がる夜景を眺めていた。
 その席は人目につかない奥まった所にありながら、正面にも横にもガラス張りの壁が設えられていて、広いレストランの中でも最高の眺望を楽しめる場所だった。
 店内には、亜弓と同じようにスーツを着た男性と、それによく似合う品良くドレスアップした女性が、対になって点々とテーブルに向かい合っている。
 昨夜中村からホテルの名を聞いて、慌てて唯一のオーダーメイドスーツをクローゼットの奥から引っ張り出しておいてよかった、と亜弓は心から思った。まともなものを身に着けていながら、それでもかなりの場違いさを感じているのだから、吊るしのスーツなんかで来た日には、もう5分とその中にはいられなかっただろう。
「柴崎様」
 ぼんやりとしていた亜弓の元へ、ここへ来たときにも直々に案内してくれた総支配人がやって来て、亜弓は思わず居住まいを正した。せっかくの奥まった席なのに、総支配人などが何度もやって来るものだから、何か周囲からチラチラと視線を感じて仕方がない。
(そりゃあ、こんな頼りない若造が一人でこんなとこにいて、そこに総支配人なんかが度々来てたら、滑稽で気にもなるよなぁ……)
 ため息をつきながら肩を縮める亜弓は、寄越される視線の大半が女性からのもので、その頬が淡く染まっていることになど気づきもしない。
「中村様から、もうすぐ来られるとのご連絡が入りました」
「そ、そうですか。じゃ待ってます」
「新しいワインをお持ちいたしましょうか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「御用の際はお申し付けください」
 総支配人は恭しく亜弓に向かって頭を下げ、店の奥へ戻っていった。
 亜弓は知らず緊張していた肩を落とし、ワイングラスの細い脚に触れた。
 かれこれもう、1時間も亜弓はこうして待ちぼうけていた。時間には正確な中村が約束の時間に来られない理由は、すでに携帯の方に連絡が来ている。帰り際になって、一人急患が来たらしい。そういう理由ならば、外科医の遅刻は遅刻のうちに入らないと、亜弓は理解している。
 8月12日。今日は、中村の30歳の誕生日だ。
 2月の亜弓の誕生日は、部屋で二人きりで、ゆっくりと過ごした。亜弓が高級レストランなどの雰囲気を不得手としていることを、中村は知っていたからだ。
 しかし今日の中村の誕生日に際しては、中村は亜弓の知らない間にホテルの部屋とレストランを予約してしまっていた。
 名を聞いただけで臆してしまうようなホテルでのディナーに、亜弓はかなり気後れしていたのだが、中村から「特別な日にしたいんだ」と頼まれては、彼の誕生日であるだけに強く断ることもできなかった。
 ふう、ともう一度ため息をついたところで、ふと背後から急いたような靴音が聞こえてきた。
 振り返ると、少し前髪を乱した中村が近づいてきて軽く手を挙げ、総支配人に親しげに出迎えられ、向かいの席についた。すれ違いざま、中村の体に纏わりついた外の夜気に、ひんやりと冷房の効いた空気が熱を孕む。
 その姿に店内が少しさざめき立ち、そして亜弓も、思わず見惚れてしまう。
 すらりとした痩身は実際以上に彼を長身に見せ、見るからに上等なブランド物とわかるスーツもネクタイもなぜか厭味なく着こなされており、そして何より、その場への違和感を全く伴わない気品と風格、それを損なわない端正な面差し。
 白衣姿の中村は辣腕を発揮する優秀な医師であるが、ひとたびこんなスーツを纏えば、男性としての魅力を匂わせて余りある。
 亜弓は、何度でも中村に恋をしていしまいそうだ、と思った。
「ごめんね亜弓、すごい待たせちゃって」
「いえ…急患だったんでしょう? お疲れさまです」
「ほんとにごめん。ええと、お腹すいてる? コース予約してるんだけど、頼もうか」
「あ、あの、中村さん」
 待ちぼうけた亜弓に気を遣って注文を急いた中村を、亜弓は呼び止める。
「すいません…あの、部屋の方で食事をとることって、できませんかね」
 言うと、中村は少し驚いて、それから少し申し訳なさそうにした。
「ごめん、亜弓はこういうとこ、嫌いだもんね」
「あ、そうじゃなくて」
 慌てて亜弓は弁解する。確かにこういう高級然とした雰囲気は苦手だし、他の客から注目を浴びるのも居心地が悪いのだが。
 しかしそれよりも、周囲の客が中村を見つめるのが、なんだかイヤだった。
「二人きりに…なりたいんです」
 他の誰にも中村を見せたくないのだと、そんな独占欲は隠して言った亜弓に、中村は優しく微笑んでくれた。
「可愛い、亜弓」
「…可愛くなんか、」
「宇井さんに、部屋に料理を運んでもらうよう頼んでくるよ。エレベーターホールで待っておいで」
 中村は席をたち、宇井と呼ばれた総支配人の元へ歩いていった。それは親しげに話す二人に、聞かずとも中村がここの常連であることが知れる。
(住む世界が、違うよなぁ……)
 密かに嘆息した亜弓の肩を抱いて、中村はエレベーターに乗り込んだ。


 中村が予約していた部屋は、25階にある一室で、いわゆるVIP御用達のスイートルームだった。
 その部屋で、頃合を見計らってやって来るボーイに給仕されて、一体いくらするのかわからないコース料理を食べた。それはもちろん美味には違いないのだが、亜弓はどうしても、自分の誕生日に中村が振る舞ってくれた手料理の味を思い出してしまった。
 やがて食事が済み、二人はこれまた一本がいくらするのかわからないワインを手に、ソファへ移動した。
「今日はごめんね、遅れた上に気詰まりな思いさせちゃって」
「いえ、そんな。俺一人じゃ一生こんなとこ縁がないから、貴重な経験させてもらってます」
「僕だってそうしょっちゅうこんな贅沢してるわけじゃないんだけどね。これは30歳の誕生日の、僕の思い出作り。その場に一緒にいてくれて、ありがとうね、亜弓」
 広いソファなのに密着して座って、その耳元に囁くように言われ、亜弓は頬を赤くした。
「あ、あの、中村さん」
 そのままなし崩しにベッドへ直行しそうな雰囲気を遮って、亜弓が中村の肩を軽く押しのける。そして脱いでいたスーツの内ポケットから、綺麗にラッピングされた小箱を取り出した。
「これ、大した物じゃないんですけど」
「…僕に?」
「一応誕生日プレゼントってことで」
 その包みを受け取って、中村は満面の笑みで亜弓を抱き締める。
「ありがとう。嬉しい。開けてもいい?」
「あ、はい。でもほんとに、大した物じゃ」
 しきりに恐縮する亜弓の口を制して、中村は包みを開いた。それは、ブラウンの革張りのケースに入った、眼鏡だった。
「前に、眼鏡ケース壊れたって言ってたでしょ」
「よくそんな前のこと覚えてたね」
「それっきり、中村さん眼鏡そのまんまドレッサーに置いてたから。フレームは、店で見て中村さんに似合いそうだと思ったので」
 中村は普段はコンタクトをつけている。しかし夜の入浴後や目の調子が悪いときなどは、眼鏡をかけているのだ。
 中村は嬉しそうに、早速その眼鏡をかけて見せた。
「どう、似合う?」
「はい。度はどうですか、一応コンタクトの度に合わせてもらったんですけど」
「ん、今はコンタクトしてるからわかんないけど、多分大丈夫だと思うよ。ありがとう、亜弓が僕のために選んでくれたんだから、コンタクトやめてこっち使わせてもらうよ」
「眼鏡の方が度の進みが早いらしいですよ」
 そんな天邪鬼なことを言いながら、中村に喜んでもらえたことが、亜弓はかなり嬉しかった。
 何か身につけてもらえる物がいいとは思ったのだが、ベタに腕時計などを贈ろうとすると、ブルガリやロレックスを持つ中村に相応なものを思えば到底手が出ない。亜弓なりにかなり悩んで、しかも奮発したプレゼントなのだ。
 それを大切そうに自分のスーツへ収めた中村は、その代わりのように、リボンがかけられたベロア地の細長い箱を取り出した。
「じゃあ、今度は僕からきみに」
「俺? 今日は中村さんの誕生日でしょう?」
「そう。だから今日は僕のお願いを聞いてくれる?」
「そりゃまぁ…」
「じゃあお願い、僕を喜ばせるためと思って、これをつけていてください」
 中村の指がリボンを解き、亜弓の目の前でその箱を開ける。
「わ……」
 中からの銀色の輝きに、亜弓は少女のようなときめきを抑えられなかった。
「…綺麗」
 亜弓が受け取ったそれは、シンプルなプラチナ製のペンダントだった。ペンダントトップは、隅に何か小さな模様が黒く彫り込まれたプレート。よく見ると、その模様は鍵穴のような形をしていた。
「これ…?」
 箱から取り出すと、細い鎖が頼りなく揺れ、そのプレートの裏には小さな文字が彫られているのだとわかる。目を凝らすと、文字はこう読めた。

 ――『A man who can open the key of your heart is me.

「亜弓」
 呼んだ中村を振り仰ぐと、中村はおもむろにネクタイを緩め、その首元を晒した。
 そこには、亜弓の手の中にあるものとおなじ白銀の輝き。ペンダントトップは、鍵の形を模したものだった。
「あ……」
 気づいた亜弓は思わず声を上げ、中村はやわらかく微笑んだ。

 ――『きみの心の鍵を開けられるのは、僕。』

「気に入ってくれた? つけてもらえるかな」
 頭を撫でながら顔を覗き込んできた中村に、嬉し涙に声を詰まらせた亜弓は何度も頷いた。


 何もなかった。
 ずっと、亜弓の中には誰もいなかった。
 堅く閉ざした扉の内を、亜弓は誰にも見せなかった。
 しかしあたたかい腕が、いつか抗い難い力でその扉を押し開けた。
 腕は亜弓の内側に触れ、冷たい闇を壊した。そして腕は亜弓に光を教え、そのものが亜弓の光となった。
 光は醜さを暴き、現実を照らし、だが何をも裁かず、許し、認め、受け容れる。
その光の中に溶け込んで、亜弓は全てを明け渡す――。
「あっ……」
 一つになる瞬間、亜弓の胸の上で2つのプラチナが重なり、カツ、と小さな音を立てた。
 一瞬の眩い輝きが目を射って、その2つが融け合ったかのような錯覚を起こす。
「ん、あ、あ」
 強く揺さぶられる体は熱く、このまま熱を分かち合って、本当に一つになれたらいいのに、と思う。
「亜弓…」
 その願いを叶えるように中村が亜弓の最奥を穿ち、亜弓は高く喘いで背を撓らせた。
 中村に抱かれているときはいつも不思議だ。何もかもがどうでもよくなって投げ出してしまいたくなるのと同時に、なぜか自分が、とても大切に感じられる。
 それも全ては、中村が傍にいてくれるお陰。
 彼が自分を大事にしてくれるから。彼が自分の名を呼んでくれるから。
 そして、彼がこう言ってくれるから。

「愛してるよ、亜弓」


<END>