いちくんとミキさん 馴れ初め(いちくん視点編)

※この話は、Gallery で公開しているマンガ『いちくんとミキさん』の番外編テキストです。

 一番最初にできた一人目のセフレで、唯一切れずに続いていたネコの男が、突然もうやめると言ってきた。
「え、なんで?」
 愛情というのはなくても、愛着のようなものはあって、急な申し出に俺は理由を訊いた。
 喫茶店のアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、男はかったるそうに頬杖をつく。
「彼氏ができたんだ。身辺整理だよ」
「はぁ?」
 自分も男も性的に奔放で、特定の相手を作る気もなく互いに他に複数のセフレもいたことから、彼氏ができたなどと聞いてもすぐには信じられなかった。
「おまえに? 彼氏? マジで?」
「大マジ」
 人生楽しいことなど何もない、という顔でただ生きていたような男が、頬を赤らめてはにかむのを、俺は衝撃的な驚きとともに凝視した。
「……ビビる。顔が既に超のろけてるじゃん」
「え、マジで? 実際浮かれちゃってるからなー」
 口元が緩むのを抑えられない様子で、男はアイスコーヒーを飲み上げる。
「俺もさぁ、正直こんないいもんだと思ってなかったの。恋人って。束縛とかめんどくさいし、一人の相手としかヤれないとかつまんないし、って」
「俺もそう思ってんだけど」
「やー、違うんだよね。カラダだけじゃないってゆーか、あー愛されてるな、大事にされてるな、みたいな。安心? 安定? する、みたいな」
「……ふーん」
「うわ、すげぇ興味なさそう」
 興味がないというよりよく理解できていない俺の様子に苦笑いして、男はふっと息をついた。
「大事にされてるのがわかるから、俺も相手のこと、大事にしたいなと思うし。自分のことも、そんな悪いもんでもないように思えてさ」
 だからおまえとももうおしまい、と男はさっぱりと笑った。
「……うん。よくわからんけど、事情は分かった。もう連絡は取らないようにすればいいよな」
「そだね。俺らそもそも、ヤるときにしか連絡取り合ってなかったもんね」
「まあ破局したらいつでも連絡してこいよ」
「縁起でもないこと言うな!」
 笑い合って、男と別れる。
 喫茶店を出て、俺はちょっとため息が出た。いつでもヤれる相手が一人減ってしまった。

 俺は、男同士で恋愛とか、するメリットがよくわからない。
 性的な対象が男だってことを自覚してからずっと、その考えは変わってなくて、好きとかって感情よりも、好きなときにヤれるかどうかの方が俺にとっては優先事項だった。
 だからそんな俺が、まさか誰かに一目惚れするなんて、全然考えもしなかったんだ。

 男と切れて一か月ほど経った頃。
 その日も俺はコンビニの夜勤バイトで、大学の授業を終えて出勤していた。
 店の前ののぼりの変更とポスターの貼り替えをしなきゃいけなくて、外へ作業をしに出ると、隣のマンションの前に小型のトラックが停まっていた。どうやらマンションへ新しく引っ越してきた住人と、その引っ越しを手伝っていた知人が、引っ越し終了を労っているようだった。
「すみません先輩、車ありがとうございました。助かりました」
「おう。今度なんかおごるの忘れんなよ」
「わかってますって。部屋片付いたら飲みましょうね」
「ちゃんと呼べよー。んじゃな」
 手を振って、トラックが発車する。それを見送った、小汚いジャージ姿の男性がこちらを振り返る。
「!」
 ばちっと目が合って、思わず会釈すると、相手はふわっと笑みを浮かべた。
「今日ここに引っ越してきたんだ。しょっちゅう利用させてもらうと思うから、よろしくね、店員さん」
「え、あ、はい」
 社会人と思しき男性は、引っ越し作業で汚れたTシャツはよれてるし、頭は企業名の入った粗品タオルを巻いているし、決して洒落てもいないいでたちだったのに、なぜか俺にはきらっと輝いて見えた。
 どくっと、なぜか動悸がする。
(なんだこれ……なんの緊張? あれか? 顔がドストライクだからか?)
 そわそわと落ち着かなく視線をさまよわせていると、マンションから小柄な女性がパタパタと飛び出してきた。
「和実! ピザ注文しといたよー。早く入ろ」
 そしてごく自然に、女性は和実と呼ばれた男性の腕に自分の腕を絡めた。
「あ、お酒とか買ってく? 隣ちょうどコンビニだし」
 女性の甘えた声に、男性はにこやかに笑う。
「そうしようか。トモは何が好き? ビール? 甘いの?」
「あたしはねぇ、微炭酸のカクテルー」
 くっついたまま、二人は仲良く店内に入っていった。
(……あー。まあ、そうよね)
 落胆している自分に気づく。
 この感傷は何なんだろう。

 それからも、ほぼ毎日帰宅時にコンビニに寄る男性とは、頻繁に顔を合わせることになった。
 公共料金の支払いに来たりもしたから、男性の名前が『三樹原 和実』ということも知った。
 訪れる三樹原さんは、スーツ姿だったり、カジュアルだったり、部屋着だったりと、見るたびに印象が違っていた。
 どうもあまり自分の服装などには頓着しないたちらしく、部屋着で寝ぐせのついたまま来店したときなどは、スーツ姿でかちっと決めたときとのギャップに随分驚かされた。
 そして、もう一つ驚かされたこと。それは、女性と一緒に来店するとき、その相手がほぼ毎回違うということだ。
 引っ越してきてから半年の間に、もう四人ほどの違う女性とくっついているところを見かけている。
 そしてある日、Tシャツにデニムというゆるい格好で訪れた三樹原さんは、片頬に大きな紅葉印をつけていた。
「……と、タバコ」
 レジカウンターに弁当の入ったかごを置きながら三樹原さんが言うので、おなじみのタバコを取ってスキャンする。
「それ、どうしたんですか?」
「うん?」
「ほっぺ」
 それはどう見ても平手を食らった跡で、だいぶ赤く腫れあがっている。
「ああ、これねぇ。彼女。ていうか元カノか。ふられちった」
 へらっと笑う三樹原さんはどうにもこたえてなさそうで、身持ちの悪さはこの人に原因がありそうだと俺は思った。
 深夜の店内は他に誰もおらず、少しゆっくり弁当をレンジにかける。
「この間一緒にいた人ですか? 髪の長い」
「ん? あー、たぶん。その前も長い髪の子だったから、違うかもしれないけど」
「……ちょっとサイクル早くないですか? もしかしてかぶってます?」
「えー、かぶってはないよ。浮気だけはしたことないもんおれ。でもなんか続かないんだよねぇ」
 弁当の袋を受け取ってカウンターにもたれて、三樹原さんは小首をかしげて見せた。
「好きじゃないんでしょ、とか、興味ないんでしょ、って言われちゃうんだよね。おれなりに大事にしてるつもりなんだけど。さっきも、愛がないとか言われて。彼女がないって言うならないのかなぁ、って思ってそう言ったら、殴られた」
「うわ……そこはなくてもあるって言わなきゃ」
「でも、ないのかもしれないって思っちゃったんだよ。一度そう思っちゃったら、やっぱりもうだめだよね」
 少し寂しそうに目を伏せる三樹原さんを見ていたら、なんだかすごく、たまらない気持ちになった。
 しょげないで。あなたがあなたなりに大事にしてたなら、わかってくれる人はいるから。俺は知ってるから。俺は! 俺は……!
「俺と! つき合ってくれませんか!!」
 気づいたら、そう口走っていた。
「三樹原さんに愛がないなら、俺があげるから! 俺が三樹原さんを大事にするから!!」
 言ってしまってから、長い沈黙が落ちた。
 うわあああぁ、何言ってんだ俺!? と我に返ってあたふたしていると、目を丸くして黙り込んでいた三樹原さんが、不意に噴き出した。
「そうかぁ。杉本くんは、そうなのかぁ」
「え、え、何がですか?」
 三樹原さんが何に納得したのかを訊こうとしたタイミングで、他の来店者を知らせる音楽が鳴った。
 いらっしゃいませー、と仕事用の声を上げた俺に、三樹原さんはにこ、と笑う。
「うん。じゃあ、よろしくお願いします」
「え」
 待って、とも言えず、すたすたと自動ドアを抜けて出ていく三樹原さんに、俺は条件反射のようにありがとうございましたー、と声を上げる。
 自分の口走ったことと、三樹原さんの返事に、俺はただただ呆然としていた。

 その『よろしくお願いします』の意味がわからず、その晩は悶々と過ごした俺だったけど、翌日も三樹原さんは来店して、携帯電話の番号とメールアドレスを記した名刺を渡してくれた。
 感動して受け取れないでいると、「あれ、つき合ってってそういう意味じゃなかった?」と三樹原さんが名刺をひっこめようとする。その名刺を、ひったくるようにして俺は受け取った。
「ほ、本当に!?」
 勢い込んで確認した俺に、三樹原さんは「うん」と笑って頷いてくれて。
 俺はその日のうちに残り二人のセフレとの関係を絶って、改めてもう一度、三樹原さんに告白をした。

 それが、俺たちの馴れ初め。
 未だに、あの時どうしてミキさんが俺の告白を受け入れてくれたのかはよくわからない。
 あっさり受け入れられたことで、ノンケかと思いきやバイだったのかと思い込んでいたら、実はやっぱり未経験のノンケだったということも発覚した。
 正直、ミキさんがあの告白を受け入れる余地はなかったんじゃないかとも思うのだけど、拒否されていたらと考えただけでも泣きそうなので、考えないようにしている。
 受け入れられなくて当然の想いを、ミキさんが受け取ってくれたのだから、あとはミキさんに愛がなくたって、俺があげられればそれでいい。俺がミキさんを大事にする。誓った通りに。
 恋愛に不慣れな俺たちが、生まれたばかりのこの感情を、関係を、壊れないように、壊さないように、どうやって育てていくか。
 難しいけれど、ミキさんの笑顔を見たいって思うだけで、不思議と何だってできるような気がしてくるんだ。


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