ねがいごと


「…忙しい。」
 あまりの忙しさに、口に出したところで何の効果もない言葉がつい口を突く。
 腹が減った、とも言いたかった。晩飯を食いっぱぐれているので確かに空腹だ。
 眠い、とも言いたかった。ここ数日、家の布団でゆっくり眠っていないので寝不足だ。
 しかしそれらの原因は全てこの忙しさにあるわけで、それら末端の問題の大元をとりあえず嘆いてから、『忙殺』という言葉はあながち誇張表現でもないのかもしれないとおれは思い始めていた。
 すると、おれはただ自分の不遇を再確認したかっただけなのに、聞き咎めた背後の准教授が、誰のせいだと思ってるの! と牙をむいた。
「学会の近いこの時期に、よりによってこの時期にだよ、一週間もサボるなんて何考えてるかと思ったよ! まさか院辞めるつもりだったんじゃないだろうね?」
 ぷりぷりと怒りながらも文献リストの作成を手伝ってくれている准教授に、そうだったんです、などと恩知らずなこともさすがに言えず、ただすみませんでしたとおれは頭を下げる。
 おれが一週間学校に出てきていなかった間、おそらく准教授は一人で教授の不機嫌に晒され、本当ならおれがやらなければならなかった資料整理などの雑多な仕事もできるところは進めておいてくれたのだ。もし准教授がやっておいてくれなかったらと思うと、忙しさは今の比ではなかったはずで、おれはもう下げた頭が上がらない。
 そんなおれに深くため息をついて、准教授は打ち出した資料を揃えておれの机にばさりと置いた。
「まあ、間に合えばいいよ間に合えばね! じゃあ僕はもう帰るから!」
「え。帰るんですか」
 帰らないで、という無言の希望を滲ませてみると、敏感に察知した准教授が声を裏返らせる。
「帰るよ! そりゃもう帰るよ! 娘がね、この春幼稚園に上がったんだよ。どこに出しても恥ずかしくないかわいい娘なんだよコレがね。最近はその娘の寝顔しか見られてないんだよ。たまには親子の会話ってのを堪能させてもらえないかなぁ!」
「どうぞ…お帰りください…」
 時計を見ればもう午後9時を回っていて、今から帰ったところで幼稚園児は既に眠っているのではないかと思うのだが、なぜだか涙目になっている准教授を、もう引き止めてはおけなかった。そんなに娘との団欒に飢えているのか、あるいは教授の不機嫌の被害がトラウマになっているのか。
「じゃ!」
 短い挨拶で准教授は慌しく帰っていき、広くはない院生室に一人残される。
 急に静かになったのが寂しくて、オーディオのスイッチを入れた。大好きな洋楽パンクにも、どうにもテンションが上がらない。
 ソファの上でぐしゃぐしゃになっている毛布が視界に入って、なんだかどっと疲れが出た。今夜もここで眠るのだ。
 一週間無断で休んだ後、再び学校に出てきたその日から三日、おれは自宅に帰っていない。実験室と院生室との往復と、時々売店に行くのと、夜になって同じゼミの友達がいる運動部の部室にシャワーを借りに行くのと。移動はその程度で、研究室の人間以外とほとんど会うことも話すこともない日々が続いている。
「…帰りたい」
 准教授に聞かれたらまた怒りを煽りそうな言葉がこぼれ、はあ、と知らずため息をついた。
 自業自得です、それはわかっています神様。でも売店で買う弁当やカップ麺以外が食いたいです。広いベッドで手足伸ばして眠りたいです。トイレの洗面台でTシャツ洗うのももうイヤです。
 あと、それから。ちょっとだけでいいので。
「…仙に会いたいです。」
 仙がうちに、学校に出て来いと言いに来て。その翌日からおれは毎日学校にいるのに、一度も仙の姿を見ていない。
 あんなふうに心配して家まで様子を見に来てくれるくらいなら、本当に出てきているかどうか確認に来てくれてもいいと思う。おれがこんだけ毎日がんばってるの、褒めてくれてもいいと思う。
 けどたぶん、それは高望みのし過ぎなのだ。それもわかっているのに、三日前から、おれの考えはどんどん贅沢になっていく。
 三日前、仙の口からあんな言葉を聞いてしまったから。
 ――俺も、ちゃんとお前のこと考えるから。
 一瞬何を言われているのか全然わからなかったけれど、確かに仙はそう言った。
 ――俺だって、お前のことはちゃんと大事だから。
 すごく嬉しかった。
 好きだとか、付き合おうとか、そんな話になったわけじゃない。だけどあの日から、期待は膨らむ一方なんだ。ひょっとして、梨絵ちゃんがいなくなって、仙もおれを好きになってくれるんじゃないかって。


 しばらく作業に没頭していると、部屋のドアが控えめに二度、ノックされた。
 オーディオの音を止めて時計を見ると、11時前。誰だろう、と思うより先に、仙かも、という思いでドアに飛びついた。
「あ……」
 けれど勢い良く開けたドアの向こうに驚いたような顔で立っていたのは、小柄な女の子だった。
「…びっくりした、やっぱ遥平だったんだ。誰か待ってた?」
「いや、べつに。どうして?」
「なんかすごい勢いであけた後、あたし見てなーんだって顔したから。失礼な男よね相変わらず」
 気分を害するようでもなく、呆れたようにくすくす笑っているのはおれの元、…元、元、くらいの彼女だ。
 相変わらず失礼だとこの元彼女、知枝が言うのには理由がある。付き合っていた頃、セックスの最中、それもラストのその瞬間に、おれが「たくみ」と仙の名を呼んでしまったのだ。
 もともとおれの声は聞き取りづらいことが多いらしく、しかも意識して出した声ではなかったので、聞き違えた知枝は激怒しておれに思い切り平手を食らわせた後、こう叫んだ。
「クミって誰よ!」
 誰よと言われてもこっちこそクミって誰だと聞きたい心境だったのだが、相手はなんだか怒っているし、とりあえず謝ったら、彼女とはそれっきりになってしまった。
 その後しばらく彼女はおれを完全に無視していたが、次におれが付き合った相手がクミという名前でないことを知り、自分の早合点ではなかったかと謝りに来た。おれももうそのときは知枝とのことをどうとも思っていなかったので、謝られてすぐにいいよと返した。それからは仲のいい女友達、というような関係が続いている。
「なんかさ、遥平が横田先生につかまって大変だって聞いたからさ。最近まともに家にも帰ってないんでしょ? 食べるものもちゃんと食べてないんじゃないかと思って」
 そう言って知枝が紙袋を掲げて見せ、渡されたその中身を見ると、手作りと思しきおかずの数々が詰められたタッパーだった。そういえば知枝はとても料理が得意だった。
「うわ、ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい。さっき神様に願ってたんだ。早速叶ったな」
「神様ぁ?」
「そう。売店の弁当やカップ麺以外のものが食いたいよーって」
「…そんな瑣末な願いをかけられる神様も迷惑よね…」
 知枝はいよいよおかしそうに笑いながら、じゃあね、と踵を返そうとする。その背中を呼び止めて、親切ついでに頼まれてくれないだろうかとおれは両手を合わせた。
「あのさぁ、頼みがあるんだけど。知枝、おれの部屋の合鍵まだ持ってる?」
「合鍵ぃ? 持ってるわけないじゃない! あんたと付き合ってたのって、だいっぶ昔の話よ?」
「あ、じゃあ鍵渡すからさ…ちょっとおれの部屋から適当に着替え取ってきてくれないかな…」
「はあー?」
 知枝は露骨に面倒くさそうな顔をして拒否しようとする。まあ当然だろう。
「面倒だろうけど頼むよホント。まだしばらくたぶん泊り込みだし、パンツ洗って滅菌機で乾かしてる間、ジーパンの下ノーパンなおれをかわいそうだと思うだろ?」
「確かにかわいそう…っていうかいっそ不憫よね。仕方ないわねー」
「ごめん、ありがとう! 今度絶対おごるから!」
 奇跡的に受けてもらえて、おれは尻のポケットからキーホルダーを取り出した。研究室の鍵やら自転車の鍵やらがついたそれの中から、自宅の鍵を外す。それを知枝の小さな手のひらに乗せようとした、そのとき。
 バン、と、この時間に似つかわしくない大きな音が廊下に響いて、おれたちはその音の方を振り向いた。
 おれの研究室の、斜め向かい。そこに、壁に拳を叩きつけた仙が立っていた。
「仙……?」
 なんて気の利く神様だろうかと思った。うまい飯も思いがけず与えられたし、ちょっとでいいから仙に会いたいって言ったのも叶えてくれた。
 あとは家に帰りたいってとこだけかな、などと悠長なことを考えていたら、目の前の仙がものも言わず突然おれに背を向けて走り出した。
「え? ちょっと、仙!」
 わけがわからず、とりあえずもらった紙袋をドアの陰に置き、知枝にはごめんと言い置いて鍵を握らせ、おれも走って仙を追いかけることにする。
 そういえばさっきの仙はなんだか怒ったような顔をしていた。おれを睨みつけて、壁を殴りつけて。何かそんなに怒らせるようなことをしただろうか。
 いや、三日前仙はおれの首のキスマークを見て(おれはキスマークがなかなか消えにくいもんで…)ひどく怒っていたけど、でもそのときの怒りはあの場で収まったはずだ。というか、あの時はむしろおれの方が怒っていた。
「仙!」
 追いかけて廊下を曲がった先で仙は、エレベーターを待っていた。しかしおれが呼んだ声に気づくと、慌てたように背後の非常階段を駆け降り始めた。
 何なんだ。なんでおれが逃げられなきゃいけないんだ。
 怒りが湧いてくるとともにすっと頭の芯が冴える。ここは5階、仙が呼んだエレベーターは間もなく来る、ならばエレベーターで降りた方が早いはずだ。
 チン、と軽い音を立ててやって来たエレベーターに乗り込み、ボタンを連打して1階へ直行する。箱から降りて振り返ると、ちょうど仙が階段を降りてきたところだった。
「ちょ…卑っ怯~…」
 息を切らせた仙は、平然と立っているおれを見るなりそう呟いて階段の隅にへたり込み、頭を抱えた。
「なにが卑怯だよ。そっちこそ人の顔見て逃げ出して、勝てるって分かりきった体力勝負に持ち込もうとしたくせに」
 もやしっ子を自認するおれにしてみれば、逃げられる気満々で逃げた仙の心根の方がなお許しがたく、膝を詰めるように近づいて仙のすぐ目の前に屈んだ。
「なんで逃げたの。壁に当たったりしてさ。なんかおれ怒らせた?」
 顔を上げない仙の髪に触れながら問うと、向きになったように仙がおれのその手を振り払う。
「だって…!」
 勢い上がった仙の顔を見て、おれは咄嗟に、明日起こる天変地異に思いを巡らせた。
 仙が、……仙が泣いている。
「お前、俺のこと好きだとか何とかぬかしてさんざっぱら俺を悩ませといて、自分はいつもどおり女といちゃこらしてるしっ…」
 ――これは一体なんとしたことだろう。
「仙……まさかやきもち焼いたの?」
「違う!!」
 泣きながら、顔を真っ赤にして仙は即座に否定する。
「俺はっ…俺はなぁ、男と恋愛云々ってのは絶対にありえねえと思ってたんだ。俺の中ではそんな事態は絶対にあっちゃいけないことなんだ。それをだな、俺の中の天地をひっくり返すくらいの覚悟をしてお前のことを考えようとがんばってるところに、お前はっ……また家に女連れ込んでっ……!」
 一息にまくし立てて、ふと抱えた熱を逃がすように息をつき、仙は力なく膝を抱えた腕に頭を落とした。
「まともに悩んでる俺が、バカみたいじゃねぇか……」
「それは確かに…やきもちとは違うね」
 頷いて、おれはそっと、両腕で仙を包んでみた。腕の中でひどく仙は嫌がったけれど、じっと力を込めて抱き続けていたら、やがておとなしくなった。
「……俺はお前が大事だ」
 薄暗い非常階段の片隅で、小さく仙は、この間と同じ言葉を聞かせた。
 常識的で真面目な仙は、きっとたくさん考えてくれたのだろう。今はまだ、仙に言えるのはそこまでで、けれど仙が口にする以上の気持ちが、腕の中の彼から伝わる気がして。
「おれも。仙が大事だよ」
 それが気のせいではないことを祈りながら求めたくちづけは、戸惑いながら、それでも彼の唇に受け入れられた。それは、思春期の少年のファーストキスのような、ぎこちないキスだった。
 今はこれでも十分すぎると、おれは目を閉じる。
 神様、ありがとう。絶対に叶わないはずだったおれの願いは、今この腕の中にあるよ。


<END>