いつから


 大学に入って初めて学部で遥を見たとき、俺はなんて妙ちくりんな頭をした奴だろうかと思った。
 高校出たての遥の髪は、全体的には黒いのだが、根元だけが赤茶けた色をしていた。全体的に茶色いのに根元だけ黒い、というのは少し不精をすればよくあることだけれど、逆というのは珍しい。逆プリンとでも言うのだろうか。
 ああ、ちょうどイカスミプリンにカラメルソースがかかっているような感じだ。イカスミプリンなんてものがあるのかは知らないが。
 学生の数が多いと、あ行とさ行の間の学生番号は案外遠く、入学当初のガイダンスやレクリエーションのときにも、俺が遥に接する機会はなかった。
 そうして数ヶ月が過ぎ、初めて遥と会話をしたのは、遥が何度か散髪を繰り返し、黒い毛先がすっかり落ちた頃だった。
 一般教養の授業に少し遅れて行って、空いている席に座ったら隣が遥で、偶然俺がその授業の教科書を忘れてきていて、遥に見せてもらったというような流れだった。その後昼飯を食うと言うからつき合って、食堂でしばらく話をしたのだ。
 学部の女たちから大モテだと聞いていたからどんなスカした野郎かと思っていたら、稲葉遥平とは、なんだか妙に子どもっぽい、おかしな奴だった。
「そういやさ。お前大学入った頃、なんであんなとんちんかんな頭してたわけ?」
 定食の付け合せのポテトサラダから丁寧に取り出したグリーンピースを皿のふちに沿って並べている遥に、ふと思い出して俺は問うた。
「なんでって…」
 グリーンピースを並べることに集中している遥は、こちらを見ないで眉だけを少し寄せる。
「おれの高校、校則厳しかったから」
「は?」
 問いと回答の繋がりが見えずに、今度は俺が眉を寄せた。
 この頃からそうだ。遥の説明は何でも、過程を端折って簡潔明瞭、しかし聞いている方は奴の思考が読めない。長ったらしくくどい説明は俺だって好まないけれど、そうやってぽつんと結論部分だけを述べられては理解に困るのだ。
 それからも遥のこの癖はいつまでも直らず、聞く側の俺が慣れる方が早かったのだけれど。
「だから。おれはこっちが地毛で。けどなんか、進学校だから、風紀のおばちゃん先生とかがうるさくて。黒くしてたの。大学入ったら誰もうるさく言わないから、染めるの金かかるし、ほってたら戻った」
「へぇー」
 その色で地毛なのか、とびっくりして俺は、何の気なしに遥の髪に手を伸ばした。確かにやや長いその髪は、染めたような軋みもパサつきもない、至って健康なものだった。
「すっげ。けっこう色抜かねぇとこの色は出ねぇよ普通」
 触り心地のいい毛束を掴んだまま、このとき俺は、この色俺好き、とか何とか言ったかもしれない。それは意識しないほど素で言った感想だったのだけど、ふとそれに気分を害したかのように、顔をしかめて遥が俺の手を振り払った。
「おれ、飯食ってんだけど」
 その手が邪魔なのヨ、と言って遥は、グリーンピースがきれいに取り除かれたポテトサラダに箸を入れた。その皿のふちを彩るように並べられた緑のひとつに、俺は手を伸ばす。
「ミックスベジタブルなら、俺はどっちかっつーとそっちの赤いのの方が苦手だけどなぁ」
 緑を口に含んで遥をぼんやりと見やると、遥は箸をくわえたまま一瞬きょとんとした顔をし、それからふわっと笑った。
「仙田ってもっとクールなイメージあったけど、意外とガキっぽいトコあんだね」
 おめーにそんなこと言われたかねーや、と悪態をついて俺も笑った。
 遥の隣で、何の力も入れずに居られる自分に、そのとき気づいて。いい友達になれるかもしれないと、思って俺は嬉しかった。
 その日家に帰ってから、ふと遥の言葉を思い出す。
『仙田ってもっとクールなイメージあったけど』
 今日初めて話した俺の存在を、遥は前から知っていたのだろうか。
 名前も知らないような学生がたくさんいる中で、変に目立っていたあいつを俺が見つけたように、特に目立つところもない俺をあいつも?
 呼び名が 「稲葉」 から 「遥平」 になり、そして 「遥」 へ変わる。あいつが俺を呼ぶ声も、 「仙田」 から 「仙」 へ変わる。何年もかけて、確実に二人の距離は縮まっていく。
 その中で気づくことがいくつも出てくる。そうして問いたい言葉が生まれるたびに喉の奥へ押し込める。
 遥。
 お前はいつから、俺を見てた?


「離してくれよ……」
 片手を掴み上げられたまま、赤い首元を晒して遥がうなだれる。
「なあ…なんで? なんでおれにかまうの? なんで関係ないことないとか言うの? おれちゃんとわかってるよ、お前がおれの気持ちに応えられないってことは、ちゃんと弁えてる。だから全部諦めようって…思ったのになんで仙は」
 問い詰める声に語れる理由などなく、力なく俯いている遥に、ただごめんと謝った。
 瞬間、いきなり振り仰いだ遥が、掴まれている方とは逆の平手で強く俺の頬を弾く。
「謝んないでよ!! 言葉で謝ってるつもりで、仙は全部なかったことにしたいだけじゃないか!!」
 聞いたこともないような悲しい声で、仙は俺を詰って泣いた。
 詰られて当然のことをした。長い間、彼女の存在の陰に遥の気持ちを黙殺して、その彼女がいなくなった途端、打ち明けることもしないで黙って傍に居てくれた遥の思いを俺は踏み躙った。
 そのことを謝りたい気でいながらその実、俺は遥が今までどおり、気にしないでと笑って許してくれるだろうと甘えていたのだ。
 殴られた拍子に離した遥の細い手首は、赤く跡がついていた。その両手に顔を伏せて、遥が泣いている。
 こんなふうに遥を泣かせたいわけじゃない。今まで遥から俺への気持ちと俺から遥への気持ちの種類は違っていたけれど、それでも確かに俺にとって遥は大事な存在だった。
 たぶんそれは、遥が俺を見続けてきた時間とそう変わらないほど、前から。
「…泣くな」
 瞼をこする手を外させて、濡れた頬に触れる。拒絶するように、遥は頭を振った。
「触るな」
「イヤだろうけど、触るよ。俺はお前が泣いてんの見るのイヤなんだ」
「っ……勝手なことばっかり!」
「ごめん。ほんと俺は勝手だ」
「泣いてるの見るのがイヤとか、それも結局お前が罪悪感負うのがイヤだからだろ」
「…その通りだな」
 そういうわけではないのだと、遥の正確な指摘を弁解しようとするならば言えることはなく途方にも暮れてしまうが、もう俺も遥の言葉を否定する気はなく受け止めた。
「お前が俺のことで自棄んなったりしてると、正直参る。自分のせいで人が苦しんでるとか、見たくねえよやっぱり。重てぇもん」
 自分でも身も蓋もないことを言っていると思いながら、遥の張った肩に触れた。遥はもう逃げこそしないけれど、その肩からはどんどん力が失われていく。
「…ごめんな。お前が好きになった男は、こんな奴だよ」
「……もういい」
「けどさ。遥、聞けよ」
「聞きたくない」
 遥は制止を振り切って部屋の奥に戻ろうとする。
「研究は俺とは関係ない、けどお前にとって大事なものだろ。それまで俺のことで自棄になって捨てたりとかするな」
「聞きたくない!」
 部屋に戻る遥を追った俺に、遥は振り向きざまに手近にあった綿棒の容器を投げつけてきた。
「いでっ」
「もういいから帰れ!」
「わかった、あといっこ言ったら帰るから、頼むから聞け」
 次に投げるものはと目覚まし時計を掴んだ遥の手をようやく落ち着かせて、俺はこの日初めて、まともに遥と向き合った。
「お前がさ。自棄なんか起こさないで、これからも気持ち変わんないでいてくれるっつんだったらさ。…俺も、ちゃんとお前のこと考えるから」
 その場しのぎのつもりではなく言った俺の言葉に、遥の泣き腫らした目が見開かれる。
「――せ、」
「考えたからっつってどーなのか、てとこまでは今は言えない。それは、ごめん」
 歯切れの悪い自分の言葉が気持ち悪い。なんで俺は、こんなときにさえはっきりしたことを言ってやれないんだろう。
「けど俺だって、お前のことはちゃんと大事だから」
 少し考えて、その理由に思い当たる。
 何でもいいから安心させてこの場を丸く治めようと思えば、俺はけっこう口から出任せで適当なことを言ってしまえるタイプだ。なのにそれをしなかったというのは、遥とのことをきちんと考えようとしているということに他ならない。
「…じゃ、いっこ以上言ったかもしれんが、俺は帰る」
 勝手に上がりこんでいた部屋から玄関に向かい、散乱していた靴を集めて履いていると、後ろからそっと、遥が服の裾を引いた。
「あのさ。仙」
 惑ったような遥の眉は、中央に寄って歪んだままだったけれど。
「おれ、明日学校行くわ」
 一週間ぶりに見た遥の笑顔を、俺はずっと見たかったのだと、そのとき初めて自覚した。


<END>