一体おれは何をやってるんだろう。
初めて入るわけではないホテルの無人のロビーで、パネル写真から部屋を選んでいる男の隣で、今更のように考えて少し虚しくなった。
「ここでいい?」
空室のマークが点灯している部屋の写真を指差して男が問うのに、異存があるわけもなくただ頷く。笑んだ男が、写真の右隅にあるボタンを押して、そのパネルから空室のマークが消えた。
「行こうか」
促されて、おれは服の襟を口元まで上げた。誰に会うとも思わないが、男同士で堂々とラブホテルの廊下を歩けるほど、おれは同性愛というものに慣れていなかった。
男を好きになったのは、仙が初めてだった。…いや、たくさんの女の子とつき合ってはきたけれど、初めて好きになった相手が仙だったのかもしれない。
初恋は実らないものという。それがおれの場合も例外ではなかっただけのことだろう。
「どうぞ」
先を行っていた男が部屋のドアを開け、おれの背を抱く。中は特別妙な仕掛けもない、明るく清潔なイメージのシンプルな部屋だった。その部屋をやたら丁寧な扱いでエスコートしてくれた男はおれをベッドに座らせ、自分はその正面にしゃがみ込んだ。
「…さっきから全然喋らないけど、緊張してる?」
少し眉を歪めた笑みに素人だとからかわれた気がして、おれは気を落ち着けて、そんなことない、とようよう呟いて首を振った。それを見て男は、ならいいけど、と言って脱いだ上着をばさりとベッドへ放った。
ほんの30分ほど前まで、おれが繁華街の雑居ビルの陰に座り込んでいたのは、べつにこの男と会うためではなかった。相手は誰でもいいから、おれの体をどうにかしてしまって欲しかった。自棄とはまさにこのことだと思う。おれは自分を棄ててしまいたかった。
けれど金で体を売るつもりでもなく、もちろんそういった客引きもしたことのないおれは、街行く大勢の男にこちらから声をかけることもできず、向こうから最初に声をかけてきた人についていこうと待っていれば、ちらちらとこちらを見る者はあっても人待ち顔に見えるのかそのまま素通りしてしまう。
他人から見て自分はそう魅力的にも映らないのかといい加減座り飽きた頃、声をかけてきたのがこの男だった。
「暇そうだねぇ」
顔を覗き込んできた男に頷いては見せたけれど、本当は男の言うところは当たらなかった。
学校に行けば研究がある。学会用の論文も、発表原稿も書かなければならない。スライドの作成も、別進行の修論用の研究もしなければならない。暇ではない。やることはある。学校に行かなければならない。
その学校に、もう4日行っていない。
そろそろ教授がブツブツ言い出す頃だろうか。だけど行きたくない。行けばかなりの確率で仙に会う。仙に会いたくない。もう二度と会いたくない。
――あの時。
仙が、梨絵ちゃんにフラれて、ヤケ酒に飲まれておれの部屋へ来たあの夜。
独り言のつもりだった告白を聞かれて、キスをされて、押し倒されて。
わけがわからなくて、だけどわからないなりに、おれは内心、期待した。フリーになった仙が、おれの告白をもしかして聞き入れてくれるんじゃないかって。彼女と別れた寂しさに付け込むことになろうが何だろうがどうでもいいと思った。おれは、仙が好きだった。
遥、と呼ばれて。髪を抱かれて。幸せで、どうしようもなくて。
このまま抱き合って二人で眠って、朝が来てこの夜を仙が覚えていなくても、おれは耐えられると思った。ほんのひと時でも、心が通った瞬間があったのだと、その事実だけでおれは幸せになれる。今ここに仙の気持ちがあるのなら。
けれど、初めての行為に強いられる苦痛を受けながら、少しずつおれも気づき始めた。
ここに仙の気持ちなんかない。
痛いと、訴えても仙はおれを顧みない。待てと懇願しても、聞き入れられない。男相手だからこそ必要な手順も気遣いも、一切与えられない。こうして横たわって仙に組み敷かれている相手が自分である意味も必要も、どこにもない。仙にとってこの行為は酒を呷るのと変わらない、自棄の延長でしかないのだと。
気づいてしまえば独り善がりな自分の想いがただ惨めで、力ではかなわない仙の腕をそれでも拒みながら、辛いだけの行為が終わるのを待った。
そうして、ようやくおれの中で仙が無防備に果てて。
そこで我に返ったような仙から、第一声に謝られて。
痛くて惨めで悲しくて、もう消えてなくなってしまいたかった。
本当にただ「悪いことをした」と言うような後悔だけの声と、そこから伝わってくるなかったことにしてしまいたい思いとが、傷ついたおれの存在も傷ついたことの意味も、全てを否定した。
帰れと言ったおれの言葉に、仙は素直に従った。
あれから、どこの傷も癒えてはいない。
「うわ。何コレ、ちょと悲惨なことになってるよ」
手際よく服を剥いていく男のなすがままになっていたら、裸の股の間からひょっこり男が顔を上げた。
「なんかものすごい痛そうなんだけど。どんな知識のない素人にレイプされたわけ?」
レイプ。あの夜はそんな風に呼ばれる時間だったのだろうか。
半分は合意だったのだからそうとは言えない気もするが、相手もこちらも素人だったことは間違いない。
「べつに、痛いとかどうでもいいよ。やるなら早くやって」
ベッド下に膝をついて人の股間をまじまじと見ている男の頭を追い払うように立てた膝を閉じた。ここまで来て恥ずかしいも何もないが、そんな部分を見ず知らずの人間に凝視されるのも気分のいいことではない。
しかし男はふむふむと頷くと、引き寄せたシーツをおれに着せ掛けて、立ち上がっておれの横に座り直した。
「こんな怪我してるのにエッチなんかできるわけないでしょ、バカな子ね~。…それに、自分じゃ気づいてないの? 体中、めちゃくちゃ震えてる」
言われ、自分の手のひらを見つめてみれば、そこはひどく汗ばんで小さく震えていた。止めようにもそれは止めることができず、その震えが全身にあるものだと初めて知っておれは呆然とした。
「前回が、ひょっとして初めてだったんじゃない? そのときが…よっぽどショックだったんだろうねぇ」
震えを宥めるように、男が包むようにおれの肩を抱く。
「やんないの?」
手のひらを見つめたまま問うたおれに、男は軽く肩を竦めて見せた。
「はじめっから、そういうつもりで声かけたわけじゃないし」
「え?」
ならばどうしてこんなところへ連れてきたのかと、疑問に見上げれば男は笑う。
「なーんかね。きれいな子が、全部どうでもいいって顔であんなとこに座り込んで、誰かにどうにかされるの待ってるみたいにしてたらさ。普通にただ一晩遊びたいだけの奴らは、怖くてそんなのに声かけらんないよ。あのまま放っといてもし声かけられたとしたら、ほんとに君のことメチャクチャにして薬でも打ってどっかに売り飛ばしちゃうような、そーゆー輩くらいしかいないだろうなと思って。それはちょっとよろしくないと思ったので、身元の保護がてら事情聴取でもしようかってね」
誘うように声をかけた理由をそんな風に明かして、男は肩を抱く腕を解いた。
「何があったか、まあ察しはつくようなつかないようなだけどさ。好きな相手がいるなら、絶対自棄なんか起こさない方がいいと思うよ俺は。その人の目をまともに見らんなくなるようなことはさ……すんなよ。な」
男はおれの頭に手を置いて、髪をくしゃくしゃにした。
男の言うことの意味は、あまりよくはわからない。だけどこんなことをしたって、きっと仙は当てつけられてもくれない。またおれは、虚しくなって後悔するだけなのだろう。
「帰るかー」
立ち上がって伸びをした男に頷いて、おれは服を着込んだ。体の痛みは、少し癒えたような気がした。
室内の自動販売機みたいな機械で清算をして(全額おれが払わされた)、ロビーに降りるためのエレベーターの中で、不意に男に腕を引かれた。
「ちょっ…?」
無言で男はおれの首元に口づけ、そこを強く吸い上げる。慌ててその頭を押しのけると、悪びれもしないで男は笑った。
「これっくらいいいでしょ、授業料だと思ってさ」
「何の授業だよ!」
「おおー、ホラ、元気になって良かったじゃない。もうこんな変な真似すんじゃないよー? ひっかかった相手が俺じゃなかったら、今頃どうなってたかわかんないんだから」
そう言われてみれば、好きな相手にされてさえいやだったことを、好きでもない相手としようとしていたのだと、今更のように我に返って背中が寒くなった。
「……もうしない」
気持ち悪い、とでも言うように吐き捨てると、男はまた、緩く微笑んでおれの髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
じゃあね、と、また明日にでも会えるかのような軽い挨拶で、ホテルの建物の前で男と別れた。おれも軽く会釈をして、男が去った方向と反対へ向けて歩き出した。
これからどうするか、冷静に、一人で考えてみようと思った。
「あ」
帰りの電車の中で、思わず口に出してしまった自分の声に周りから振り返られて、少し恥ずかしくなる。
男の名前も聞いていなかったことを、その時やっと思い出した。
<END>