「あ、仙田くん」
研究室を出たところで、後ろから声が掛かった。振り返ると、遥の研究室から、そこの准教授が顔を出していた。
「何すか」
「きみさ、稲葉くんと仲良かったよね」
准教授に小首を傾げて問われ、その口から飛び出した遥の名に心臓が脈打った。
「はあ。遥がどうかしましたか」
答えながら、それが不自然になっていないかと変に緊張する。まるで何もなかったように遥の名を舌に乗せることは、ひどく不謹慎な気がした。
「うーん、それが稲葉くん、もう一週間も研究室に顔出してないんだよ。学会発表も近いし、どうしたのかと思って。携帯もずっとつながらないし。彼、あんまりサボりとかするタイプじゃないでしょ」
「はあ」
「よかったらきみ、彼と連絡とってもらえないかなぁ」
彼が来ないと教授が機嫌悪くて大変なんだよね、と人の気も知らずに准教授は自分の都合で苦笑した。
遥と連絡をとることは、正直なところ躊躇われる。できることなら丁重にお断りしたかった。しかしそれを拒むのも妙な気がして、つい俺は承諾してしまった。
「いいですよ。どーせ風邪でもひいてるだけなんじゃないかと思いますけど」
そんな単純な理由ではないであろうことは、俺が一番よくわかっていた。
「そうか、それはそれで心配だしね。様子見て、出てこられそうなら来るように伝えてもらえるかな。頼むよ」
「はい」
引き受けた俺に軽く手を上げて、准教授は部屋に戻っていった。
准教授の言ったとおり、遥の携帯はつながらなかった。電波の届かないところにあるか電源が入っていないのだと、優しくも厳しく女性の声は告げる。仕方がないので、直接家に行くことにした。
遥に会うのは、あの晩以来だった。あの晩、とは、俺が梨絵から一方的に別れを告げられ、酒を呷って泥酔した挙句に迷惑にも遥の部屋に押しかけた日のことだ。
あの晩俺は、遥を抱いた。
通い慣れた、けれどこの一週間でどこか足が遠のいてしまった感のある遥の部屋の前で、俺は指を伸ばし、呼び鈴を押す。遥は出ない。返事もない。
魚眼レンズから光が漏れている。居るのはわかっている。遥は出ない。
指を曲げ、伸ばし、俺は何度も、呼び鈴を押した。
会って俺は、どうしようというのだろう。
遥の部屋に押しかける前に既にかなりのアルコールを摂取していた俺はあの日、遥の部屋でさらにビールを飲み、唐突な酩酊感にテーブルめがけて突っ伏した。
布団を敷くから移れとか、こんなところで寝るなとか、遥がぶつぶつ言っている。意識はある。なのに目が開かない、体が動かない。
ふと、文句を言っていた遥が黙り込んで部屋が静かになった。このまま放っておかれたら間違いなくここで朝まで眠ってしまう、と思ってそのつもりになったとき、指先らしきものが俺の顔に触れた。鼻、瞼、頬……くすぐったい。それを払いのけられずにいると、ふと、掠れた小さな声が俺を呼んだ。
……仙、と。躊躇いがちに。
「すきだよ」
遥から向けられる、情。それを俺は、随分前から知っていて。けれど遥のこの掠れのきつい声で、聞くことになるとは思っていなかった。遥は決してそれを言わないと思い込んでいたからだ。遥がそれを言わなければ、俺たちは親友のままでいられる。
だから、言うな、と俺はこのとき思った。
言ってくれるな、そう願って、逃げようとした。
「誰とも結婚なんか、しないでよ。ずっと…おれの傍に、いてよ…。お願いだから…仙…、好きなんだよ……」
しかし、聞こえていないつもりの遥は、俺を逃がしてはくれなかった。
俺が目を閉じているからこそ言える、遥の悲痛な、告白。
それを俺は、聞かなかったことにはできなかった。
「せ……」
目を開けた俺に驚いた遥が言葉を詰まらせる。その後ろ首に腕を伸ばし、引き寄せ、口づけた。遥の目は、瞬きも忘れたかのように見開かれていた。
無抵抗な遥の体を、後ろ向きに押し倒す。床に頭を打たないよう、首を支えた。
「仙…?」
当惑しきった瞳が俺を見上げる。それには応えず、遥の襟を開け、肌に触れた。
痩せて骨ばった体格な割に、やわらかくてしっとりとした肌だった。研究室にこもりがちで色が白いのは、想像通りだった。首筋に、胸に、唇と舌を這わせると、いつものように掠れてはいるけれど、蜜の滴るような艶を帯びた甘い声で、遥は鳴いた。
そして、その驚くほど敏感な体を俺は、女のように抱いてしまった。
女とのセックスでの前戯と同じような一通りを施し、おそらくそこを受け入れ口とするのであろう場所に、無理に、雄を突き立てた。
どうかしていたのだと思う。恋人にふられたショックもあったし、酒の飲みすぎもあったと思う。その場所の抵抗はきつく、己にも痛みはあって、しかも遥は途中から泣きながらいやだやめろ痛いと拒んでいたのに、その声も聞いてはいなかった。
無理やりな挿入を始めてしばらくすると、遥の体内に突然ずるっと受け入れられた。俺はそれを、遥が自分を受け入れたのだと思い込んでいたが、そんなわけはなかった。男の肛門が女の膣ように濡れるわけがないのだ。そんなことも失念していた。
泣きじゃくってぐったりした遥の体を欲求のままに犯して果てた後、ようやく俺は微かな鉄臭さに気づいた。我に返れば遥の局所には酷い出血があり、挿入を助けたのは愛液などではなくこの血だったのだと思い知った。
息を乱して、遥は血と精液に汚れた床に横たわっていて。
動転してただ謝った俺に、遥は、帰れと言った。
何度目かの呼び鈴に、内鍵がかしゃんと音を立てた。遥に相手を確かめずに鍵を開ける癖があることを、俺は知っていた。
「……仙」
俺の姿を認めて驚いた顔をした遥に、俺は軽く手を上げた。
「よ」
「…何か用?」
「いや、お前んとこの…横田先生だっけ。学校出てこいって伝えろって」
「……」
遥は視線を逸らし、ややうんざりしたようにため息をついた。
「用件はそれだけ?」
「ああ、そうだけど…。お前、ほんと学校行けよな。学会近いんだろ」
ドアを閉じようとした遥に釘を刺すと、閉じかけたドアを開け直し、遥は正面から俺を睨め据えてきた。
「おれ、もう大学辞めるから」
「は!? お前何言って…――っ!」
いきなりの退学宣言にも驚いたが、しかし体は、もっと別のことに強く反応して無意識に俺は遥の手首を掴み上げていた。
「おまっ…なんだよそれ!?」
それ、と言って俺が指摘したのは、遥のシャツの襟から覗いた、鎖骨下の小さな赤い鬱血だった。
以前ならば、そんなものを見つけたからといって言い立てたりはしない。どうせ続きもしない彼女に、戯れにつけられたのだろうと思うだけのことだ。
しかしこの時の俺には、それをつけたのが男だということが、何故かわかってしまった。しかもその証拠に、慌てて遥が襟元を掴む。
「せっ…仙には関係ないだろ!」
「関係ないことあるか!!」
「は!? じゃあ何の関係があるって言うんだよ!!」
そう問われ、俺は遥の手首を掴んだまま、唇を噛んでストップモーションした。
関係ないことはない。咄嗟にそう言ってしまったけれど。では何がどう、関係あるのか。
……いや。深く考えるまでもない。
俺は誰か他の男が遥に触れたことに、腹を立てているのだ。
そしてこの感情は、遥にとって一番近しい人間は自分でなければ我慢ならないという――子どもじみた独占欲だ。
<END>