肩越しの光


 ダン、と玄関のドアが大きく鳴った。
 論文をまとめていた手を止め、思わず眼鏡を外して振り返った。そうする間にも、二度三度とドアが殴りつけられる。
 時刻は23時。こんな時間の来訪者には覚えがない。そうかといって近所迷惑極まりないそれを放っておくこともできず、慌てておれは玄関に向かった。
「こんな時間に誰…」
 サムターンを回すと、ノブは外から回り、開いたドアから崩れるように、男が倒れこんできた。
「…仙!?」
 咄嗟によけてしまおうかと思ったが、相手が仙だと気づいて抱き留めようとした。けれど重さを支えきれず、二人して玄関のたたきに座り込んでしまう。
 鼻先に近づいた首元から、アルコールが強く香った。
「お前…なんで来ねえんだよ」
「え?」
 恨みがましく仙が言うのに、行く約束をしていただろうかと首を傾げる。すると仙は、無遠慮におれの耳を引っ張った。
「俺ぁお前がフラれた時にはいっつも来てやってただろーが」
「それは仙、」
 頼んでないよ、と言うより先に、脳が言われた内容を理解した。
「…お前、梨絵ちゃんにフラれたの?」
 いつも仙からトロイトロイと言われているおれにしては、珍しく速く脳が回転したものだと自分でもちょっと驚いた。
 そして事態を早々に飲み込まれてしまった仙は低い声で、ビール、と唸った。
 とりあえず部屋にあがろうよ、と何度言っても酔っ払いはビール、とごねていたが、引っ張り立たせようとすると自力で立って部屋まで歩いてくれたので、体力に自信のないおれは非常に助かった。
 テーブルに寄りかかるようにして座り、いつものクッションを膝に抱いてもまだ、仙はビールを寄越せと言い続けていた。これ以上飲んだらつぶれちゃうよ、と言えば、お前んちなんだからつぶれても大丈夫だ、お前も付き合え、とついに自分で冷蔵庫までビールを取りに行ってしまう。
 冷えた缶を渡され、なんだかなぁと思いつつプルトップを上げ、乾杯もせずにそれぞれに喉を反らす。
 特に何も話さないまま二人とも底を上げ、二本目を開けようかというとき、仙がまるで酔っていないような顔で、環境が違うとダメだな、と呟いた。
「やっぱり社会人と学生は違うんだよ。先のこと考えるにしても、学生相手じゃ頼りねえんだろうな。ほんで、同じ環境で手近に頼れる男がいりゃあ、そっちに目が移っちまうんだ」
 いつもより早口な仙の言葉に、ふぅん、とおれは頷いた。他に言えることもない。
「何の前触れもなくだ。一人で結論出してた。他に好きな人ができた、って言われりゃ俺は何もできねえよ」
「うん」
「まだ学生だってだけで、どんだけ頑張っても無理なもんは無理なんだ。あいつは俺との先は見てなかった」
「……」
「俺は梨絵と、結婚するつもりだったのにな」
「……そう」
 隣ですこん、と空き缶の底が軽い音を立てた。ほぼ同時に、仙の傾いだ上半身が、テーブルに突っ伏す。
「仙?」
 呼びかけ、体を揺すってみるが、動かない。唐突につぶれた仙は、眠ってしまっていた。
「ちょっと、仙。もう、どうすんだよ。布団敷くから、そこ移れよ」
 何を言ってもやはり起きる気配はなく、仕方なくため息をついておれも仙に並んでテーブルに伏せてみた。

 仙が梨絵ちゃんと付き合って長いのは、おれも知っている。梨絵ちゃんはいい子だった。美味い手料理を、おれも一度ご馳走になったことがある。
 仙はあまり自分の恋愛話をしないけど、長く続いている梨絵ちゃんのことを、本当に大事に思っているのはおれにもわかった。このまま続けばいつか一緒になるのかもしれない、と想像はしていたけれど、今こうして仙から結婚を考えていたと知らされるまでは、それは単なる想像に過ぎなかった。
 おれではない誰かが、仙を独占する現実。
 家庭を持てばやがて疎遠になってしまう友達という存在である、おれ。

 仙の顔が近い。
 すっきりとした鼻梁に、こっそり指先で触れてみる。鼻筋が通っていて男らしい。いいなぁ、と思う。
 繊細な顔立ち、というのとは違うけれど。伏せた目や、きりっと山の高い眉や、薄い唇や。おれの大好きな仙の、顔。
「……仙」
 息だけで、呼びかける。想いが溢れて、同時に涙がこみ上げた。
 きっと仙は朝まで起きない。誰も聞いていない。だから、王様の耳はロバなのだと、ここで暴露してはいけないだろうか。
「すきだよ」
 小さな告白が、涙と一緒にテーブルへ落ちる。
 万が一こんなことを聞かれたら、きっと絶交されてしまう。わかっている。仙は絶対に、男を好きになったりしない。気持ち悪いと言われて、嫌われてしまう。だから本当は、絶対に言ってはいけない言葉。
 だけど。もうどうすればいいかわからない。胸に溜めすぎた言葉を、想いを、どこで吐き出せばいいかわからない。溜め込んだままでいられるほど強くはない。
「誰とも結婚なんか、しないでよ。ずっと…おれの傍に、いてよ…」
 仙に愛されるはずなんかないことはわかっている。だからそれは望まない。でも、これから仙が誰のものにもならないでくれたら、少しはおれの想いも救われるかもしれない。身勝手な願いだけれど、それでも、友達としてでもいい、仙にとって一番近い存在でありたい。
「お願いだから…仙…、好きなんだよ……」
 だけど、それすら叶わない願いだとも、わかっている。
 これからも仙が、おれではない誰かを愛する姿を見守ることしかおれにはできない。仙を好きでいても不毛なだけだ。そこまでわかっていても仙を嫌いにはなれない。もうどうすることもできない。おれは一生しあわせにはなれない。
 涙にこもる熱を逃がすために、一度瞼を覆って息をつく。こんなことを考えて悲観的になるなんて、おれらしくない。酔いが回ったかな、と思って水でも飲みに行こうかと瞼を上げる。

 ――仙の黒い瞳が、おれを見つめていた。

「せ……」
 咄嗟に言い訳の言葉も出てこない。
 完全にフリーズしたおれに、仙の手が伸ばされる。そして。
 仙のくちびるが、おれのくちびるに、触れた。
 想像していたよりも仙の唇は、かさついていないな、と思った。
 そのまま仙の手はおれの手首を掴んで、テーブルから引き剥がした。体が後方に倒れ、背骨が床に当たって少し痛んだ。
 仙の肩越しに、天井の照明が見えた。
 逆光になって、仙の表情はよくわからなかった。

 これは何かの、夢だと思った。


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