朝から延々続けてきたデータ処理にもいい加減飽きて、パソコンの電源を落として時計を見上げると、時刻は既に夜の9時を回っていた。そりゃあ腹も減るはずだ、と手早く荷物をまとめて研究室を出ると、廊下を挟んではす向かいの研究室の電気がまだついていた。遥の研究室だ。
毎日夜通し入れ替わり立ち代り誰かがいるという研究室も少なくはないが、俺と遥の研究室はわりと、皆朝9時に来て夜には帰る、というのがたいていだ。教授の意向によるところが強く、それは強制ではないが、なんとなくそれが研究室各々のカラーになっている。
自分の出た部屋を施錠し、皓々と電気のついた遥の研究室を振り返る。
最近遥は、忙しいらしい。国際学会での発表が決まったとかで、そのための論文が佳境を迎えているのだそうだ。ちょっと前までは遠心分離機の前に張り付いていたし、その前は山ほどの寒天培地を目の前に、おれしばらくゼリー類は食いたくない、と言っていた。ゼラチンと寒天は違うだろう、と言ってやると、そうかそれならゼリーは食ってもいいかな、などと深く納得していた。変な男だ。
来るもの拒まずで、身持ちが悪く、女をとっかえひっかえしてる割にはすれておらず、またふられちゃった、と幼い口調で頬を腫らしている顔立ちの小奇麗な男。どう考えても頭の中身は緩いだろう、と思うのだが、これが入学当初から相当優秀で、配属の際に試験のあるような研究室に、教授が是非と言って引き抜かれていったというのはちょっとした伝説である。今も遥が何を研究しているのか、畑が違うのもあって俺にはいまいちわからない。マスターの学生のやる領域を大きく超えているのだと思う。
はす向かいのドアを、二度ノックする。遥、と声をかけようかとも思ったが、もし違う人がいたときにどうにも体裁が悪い。けれどこの時間にいるとしたら十中八九遥であろう研究室からは、何の反応もない。
ひょっとして誰もいないのに電気だけつけっぱなしなのだろうかと、ドアを開けてみれば入ってすぐのソファに死体が、もとい遥が、転がっていた。
「おい、遥」
声をかけてみるが、ゆっくりと規則的に穏やかな呼吸を繰り返している遥は、どうやら完全に熟睡中だ。このぶんだと今夜はここに泊まるつもりなのだろう。
そういえば、実験が立て込んだときなどは、一週間も部屋に帰っていないと言っていた。運動部の部室でシャワーを借りて、着替えは二組ほど当時の彼女に持ってきてもらって、それを研究室の湯沸し室で洗濯していたらしい。部屋干しだけど紫外線滅菌機で乾燥させるから臭くならないんだ、と得意げに言っていた。実験器具をそんなことに使っていいのだろうか。いやそれ以前に、そんなことを思いつくこいつは相当変人だ。
ふと、その変人が狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。そして片手がポロシャツの裾を少したくし上げ、覗いたへその横をぽりぽりと掻いた。
「おい。腹出して寝るなよ」
まったく子どものようだ、と思いつつ、放っておけずソファの背に掛かっていた誰かの膝掛けを遥の腹に掛けてやる。そんなことをする自分がなんだか恥ずかしくなって、とっとと帰ろうと俺は踵を返した。
その、背中に。
「……せん」
舌っ足らずな、甘い声が、俺を呼んだ。
起きたのかと思って振り返る。しかし遥はどこか幸福そうな顔で、熟睡のさなかにいた。
遥が、寝言で俺を呼んだ。俺の夢を見ているのだろうか。
それは、幸せな夢なのだろうか。
ふいとその寝姿から目を外し、俺は大学を後にした。
遥の俺を呼ぶ声は、少し特徴的で、呼ばれればすぐに遥だとわかる。機械で音声を変えたとしても、遥なのかそうでないのか、わかるような気がする。
遥は s や th の発音が独特で、他の人よりも息漏れの量が多いのか、発音しきる前の擦過音が強く耳につく。それでやや言葉が拙いような印象を与え、さらにゆっくりとして平坦な口調が、茫洋としたイメージを強化するのだ。
その声が時々、酷く切なげに俺を呼ぶのを、知っている。
『 仙 』
気づいてほしい。でも気づかれたくない。それでも通じてほしい。混沌とした想いが溢れ、持て余すような声。
声の含むものに気づかぬふりで振り返れば、その先で遥は、何も望まない、全てを諦めたような瞳で、薄く微笑っている。
どうにかしてやりたいと、思わないことはない。親友なのだ、幸せになってもらいたいとも思う。想い合う歓びを与えられ、憂いのない笑顔で、湿りのない声で、遥が幸せでいてくれればいいと。
だけど、その幸福を与えるのは、俺ではない。
どんなに遥が想ってくれたとしても。俺と想い合うことを望んだとしても。俺にはそれを叶えられない。俺には絶対に遥を――男を愛せない。
それは嗜好の問題で、遥にも、俺自身にも、どうしようもないことだ。
だから。
俺にできることは、遥に残酷な期待を持たせるようなことをしないこと、ただそれだけなのだ。
なんだか疲れた気分で自宅のドアを開けると、中からお帰りなさい、と柔らかい声がかけられた。滑舌の良い、遥とは質の違う声だ。
「ごめんね、あたしも今帰ったとこなの。すぐご飯の支度するから」
通勤用のかっちりとした綺麗めの服もそのままに、ネックレスを外しながら梨絵は慌しくキッチンへ向かう。
梨絵とは同い年で、学部の一年次からの付き合いだから、もう4年以上付き合っている。俺は学部を卒業してから進学したが、梨絵はこの4月から社会人をやっている。大手の総合職だということで、新人なのにもう夜は遅い。別に部屋はあるのだが、俺の部屋の方が駅に近いのもあって、半同棲みたいなことをしている。まあ、半同棲生活は学生時代からなのだけど。
「ああ、いいよ。もう10時近いし、今から作るのも大変だろ。どっか食いに出ようぜ」
化粧の落ちかけた顔に明らかな疲れを見てそう提案すると、助かった、というような安堵の表情を浮かべて、梨絵はありがとう、と言った。
優しくしたいと思う。幸せにしたいと思う。俺がそう思う対象は他の人間でも、まして男でもない、梨絵なのだ。
たぶん。
時機が来れば、俺は梨絵と結婚するだろう。そのときには、遥にも祝福してほしい。
だから、遥も誰かと。できれば、普通に女の子と。
幸せになってほしい。
梨絵と手をつないで食事に向かう途中、俺を呼ぶ遥の掠れた声が、不意に耳に返った。
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