ビタースイート・ラバー


 日曜日は空けておいてね、とお願いした大樹に、悠は少しきょとんとした顔をしていた。
「え、どうせおまえ土曜から泊まりに来るんだろ?」
 毎週のことだから、と取り立てて特別なことではないように悠は言い、大樹は少々複雑な気持ちで笑って頷いた。
 週末を一緒に過ごすのが当たり前の恋人同士になれたことは、大樹はとても嬉しく思っている。
 高校時代に一度だけ関係を持って、そこから丸二年音信不通になって、同じ大学に通うために必死に努力してようやく再会が叶って、それからつき合えるようになるのだって一筋縄ではいかなかった相手。きれいで、賢くて、優しくて、憧れだった先輩。
 今は少々性格に歪みを来してはいるけれど、本質的な優しさは何も変わらない。大樹は相変わらず悠のことが大好きだ。
 その悠と、つき合い始めてから初めてのバレンタインデー。イベント事を大事にするタイプの大樹としては、その日もしっかり一緒に過ごす算段をしていた。
 クリスマスは、イブも当日も悠はがっつりバイトを入れていて、一緒にケーキを食べてお泊まりでラブラブはしたけれど、本当は両日とも悠を独り占めにして聖夜を満喫したかった。
 一方の悠はイベント事には興味のない人で、バイトがない日は他にもあるんだから、他の日に一緒に過ごせたらそれでいいじゃないかという考えの持ち主で。それに対してうだうだと反論したら面倒になった悠を怒らせて、少し喧嘩っぽくなってしまった。
 年末年始は地元に帰る大樹と帰省はしない悠とで離れて過ごしたし、共に過ごせるイベントは久しぶりだ。
 悠が自分を好きでいてくれていることを、大樹は疑ってはいない。普段から悠は大樹に甘えた姿を見せてくれるし、一緒に過ごした週末はほぼ毎回体を重ねている。浮気も心配ないし、理想的な彼氏だと思う。
 だけど、親密になればなるほど、もっと、という欲が出てしまう。
 もっと深く想い合いたい。もっと深く抱き合いたい。価値観まで重ね合わせたい。悠の思考まで含めて全部を自分のものにしたい。
 そこまで考え至って、悠のバイト先の予備校まで迎えに歩いていた大樹は、ふるっと背中に震えを走らせた。
(……やべぇ、俺の独占欲……)
 悠には言えない。言ったら絶対怒られる。言わなくたってそろそろ呆れられそうだ。いつでもどこでも大樹は悠の一番近くにいたがるから、孝之や麻衣には苦笑いされ、悠にはよく叱られている。
(だって……もう離れたくないんだもん)
 悠と音信不通だった二年間は、当時は必死だったけれど、今思い返すと地獄でしかない。もう悠と離れる時間など考えたくもない。
 予備校前に到着すると、ちょうど最終講義を終えた学生たちがわらわらと建物から出てきたところだった。ここから三十分もしないうちに悠も退勤して出てくるはずだ。
 自分と同じ年頃の学生たちが、今日は少しそわそわしているように見える。特に女子学生がきゃあきゃあと騒々しい。
 その理由はすぐに知れた。
「おう、大樹」
 悠が大量のラッピングギフト入りの紙袋を提げて出てきたからだ。
「豊漁ですね」
「賽銭みたいなもんだからな」
「賽銭?」
「毎年投げ入れ式だ、俺は」
 悪びれない顔で、悠は笑う。
「バレンタイン前後の講義日は、教室の出入り口に紙袋を置いておく。手作り品は日持ちしないし衛生面の問題で却下、基本無記名で入れること、返礼は一切しない、それでいいなら入れとけってシステムだ」
「は~」
「もう定着してるからな、わかってるやつが面白がって入れてるか、万年金欠の俺に食料恵んでやろうってお慈悲だな」
 言いながら、悠は紙袋を大樹に差し出す。持て、と言われなくても大樹は受け取る。ずっしりとした重みがあった。
「……ご利益のない賽銭だね」
 袋の持ち手を軽く開いて中を覗くと、きれいにラッピングされたかわいらしいパッケージがたくさん入っている。システムが定着しているからといって、必ずしも気持ちのこもらないものばかりがここに入っているわけではないだろう。
「所詮大衆イベントだろ、こんなの」
 悠は心底どうでも良さそうに言うけれど、袋の中で目についた、メッセージカードの手書き文字が大樹の網膜に焼き付いて離れない。
『好きです』
 丁寧で、きれいなその文字が秘める本気を、悠は真に受けることすらしないのだ。
 大衆イベントに便乗することでしか、出せない勇気もきっとあるのに。
「……ほんと、先輩イベント嫌いですよね」
 ああ、きっとこの価値観の溝はこの先も埋まることがないんだろう。
 そう思ったら少し、大樹は切なくなった。


 悠の部屋でそれぞれに風呂を使い、そろそろベッドに入ろうかというタイミングで、大樹は悠の手を引いて胸に抱く。背中に腕を回されたのを了承と取って、抱いた体をベッドに横たえた。
「……ん、」
 スウェットの裾から潜り込ませた手で乳首を撫でながら首筋を舐めると、悠は小さく息を漏らす。熱い呼気が二人の間に蟠って、互いの体温を上げていく。
「あ、ん……ん、大樹」
 ぐみの実みたいな悠の熟れたくちびるを何度もついばんで、その間から朱い舌をつるりと誘い出し、ぢゅっと吸い上げる。大樹の口内に留めた舌をくすぐるようにねぶると、悠がたまらない風情で鼻にかかった声を上げた。
「んぅ……だいきぃ、もっと……」
「……ん」
 舌と手での愛撫を止めずに、大樹は互いの着衣を剥ぎ、暖かい布団の中で二人はひたりと肌を合わせる。興奮はその間で擦れ合い、悠は自ら脚を開いてその奥へ大樹の指を促した。
「風呂で準備したから……すぐ入ると思う」
 気恥ずかしげに、悠は目をそらして言う。早く入れられたかったのだと、言外に告白しているようだ。
「……先輩」
 低く、大樹は呼んだ。悠の臍下に、そっと手のひらを当てる。
「今日、全部入れたらだめですか?」
「――え?」
 大樹の問いに、悠が固まった。たちまちその目が泳ぎ始める。
「あ……いや、おまえのでかいから……いつも奥まで入れても、ぜ、全部は入ってないんだよな?」
「そうですね」
「や、でもさでもさ、俺の腹の限界っていうかさ、つっかえるとこまで入れても全部入んないんだったら、それって仕方ないっていうか」
「つっかえるとこより奥に入れたいって言ってます」
「……あ、あー……」
 そういうこと……と力なく悠は呟き、表情を隠すように前髪を掴んだ。指先まで青ざめていて、怖いのだろうということが気遣うまでもなく大樹に伝わる。
「――んなことしたら、俺どーなんの……」
 途方に暮れた不安げな声に、大樹は自分の腹の底に渦巻いたものを宥めにかかった。これ以上は悠を追い詰められない。
「どうにも、なりませんね」
 笑って、大樹は悠の頬を優しく撫でた。
「ごめんなさい、怖がらせるつもりはなかったです。ただの好奇心。いつも通り、無理はさせないから安心して」
 くちびるに触れるだけのキスをして、いつもと同じ繊細な手つきで、悠の後ろに手を回す。
「大樹……?」
 怪訝そうに悠の目が窺ってきたけれど、大樹はただ笑みだけを返した。
(俺、けっこう傲慢だな……)
 さっき、大樹は悠を変えようとした。
 今まで暴いたことのない場所まで触れて、悠の身体を変えてやろうと考えた。そうして支配してやろうと。
 こちらから歩み寄るつもりも自分から変わるつもりもないくせに、相手を変えようとした。
 そんなことをしたって、悠は何も変わらないのに。
 大樹と合わない部分だってたくさんある、一人の別の人間なのに。
(独占欲とか所有欲とかって、結局相手を尊重してないってことだ……)
 楔をひとつ胸に落として、大樹はありったけの気遣いで悠を抱いた。


 翌朝。
 大樹が目を覚ますと、隣で裸の悠が肘枕をしてこっちを見下ろしていて、驚きに「ぅえっ」と変な声が出た拍子に覚醒した。
「おはよう」
「……お、おはようございます。早いですね」
「誰かさんが昨夜は随分手加減してくれたお陰でな。つーか早くもねえし。十時近いぞ」
 不機嫌そうな悠はばっと布団を剥いで、フローリングに降りて立ち上がる。朝の陽光に神聖な裸体が晒されてしまう、と一瞬心配のような期待をしたけれど、悠はボクサーパンツを着けていた。
 その悠はぺたぺたと素足で部屋を歩き、床に置いていたチョコレート入りの紙袋をガサガサと漁る。そして中から一つを取り出し、ベッドに戻ってきて腰かけると投げやりに大樹へ寄越した。
「ん、いるか?」
「……は?」
「バレンタインだろ今日。チョコいるか、って」
「…………」
 寄越されたパッケージに目を落とす。包装紙に差し込まれたメッセージカードには、あの『好きです』の文字。
 あまりのことに、大樹の胸に怒りよりも悲しさがどっと押し寄せた。
「……先輩のイベント嫌いはよくわかったけどさ」
 教え子たちからもらったプレゼントの中から、よりにもよってこの一つを恋人に贈るものとして流用しようというのだ。
「デリカシーないにも程がない?」
「へ?」
 抗議しながら、大樹はもう泣きそうだった。これをくれた子のことのみならず、明らかに自分のことも軽んじられた。
 悠が自分を好きでいてくれていることを、大樹は本当に疑ってはいない。でも、この人の『好き』はその程度なのだ。
「これはさぁ、先輩を好きな誰かが、先輩のために準備したもんでしょう。そんなのなんで俺に寄越すんですか?」
 大樹の感情をわかっていない顔だった悠が、そこまで言ってようやく「ああ」と理解した声を上げる。そして大樹の持つ箱の表面に手を伸ばした。
「……そりゃ勘違いだ」
 指先が、包装紙に差し込まれていたメッセージカードを引き抜くようにずらす。
「――え」
 隠れていたカードの隅には、印刷の『from』に続いて『悠』の文字。
「え、だってこれ、紙袋の中に」
「森の中に木を隠してただけだ」
「なんでそんな紛らわしいこと」
「うるせえな、どっかに隠しとくより渡すときに出しやすいかと思っただけだよ」
 はあ、と嘆息して悠は大樹に背を向けた。
「……渡せないかと思った」
 膝に肘をついて、がっくりとうなだれる。
「なんかおまえ、昨日から機嫌悪いし。いきなり結腸入れさせろとか言うし。わけわかんねえし怖ぇし、飽きられたかなとか考えちまうし。チョコに焼きもちって感じでもないし、どーすりゃいいのか……」
 わからなかった、と悠は自分の後ろ首をさする。
 不安にさせていたことと、自分の大きな誤解を知って、大樹は悠を背中から抱き締めた。
「ごめん、先輩」
「ほんとだよもう。心配して損したわ」
 はー、と大袈裟にため息をついて見せた悠が、身体に回された大樹の腕にそっと触れる。
「……べつにイベント嫌いなわけでもねえし」
「ん?」
「シフト変更で迷惑かけてまでバイト休もうとは思わねえけどさ。おまえの二十歳の誕生日とか、つき合って一年目の記念日にはシフト入れないつもりだし。どっか、ちょっといいとこ予約しようかなと思ってたし。プレゼントとかも、ちゃんと考えてるし」
 ぼそぼそと、言い訳のように悠は言って、首までを赤くした。その様がかわいくてかわいくて、思わず大樹は潰しそうな程に腕に力を込めてしまう。
 その腕の中で、窮屈そうに身を捩った悠が振り返り、大樹の頬に小さくキスをした。
「……だから機嫌直せバカ」
「ハイ! 直りました完全に!!」
 勢いのまま悠をベッドに引きずり戻し、押し倒して抱き締める。やれやれ、という呆れ顔だったけれど、悠は抵抗しなかった。
「勘弁しろ、キャラじゃねーわ」
「キャラじゃないのに頑張ってくれたとか萌え滾りますね! このカード一生大事にします」
「まじで勘弁しろ……」
 迷惑そうに眉を寄せながらも、大樹の首に腕を回してくれる悠のことが、これまでよりいっそう愛おしく思える日曜だった。


<END>