茜雲 -side F- 02


 実家に二晩泊まって、糸井は帰京した。
 いつも帰省はだいたい二泊だ。二晩あれば、男手が必要な作業の手伝いなどもほとんど片付く。それ以上留まると時間を持て余し、却って気を遣わせるだけのタダ飯食らいになってしまう。なので今回も、あちらでよほど帰省を延ばす理由でも発生しない限りは、元々二泊で戻ってくる予定にしていた。
 けれど、盆は実家に帰省すると糸川に話したとき、彼は盆休み全てを帰省に充てると思い込んだようだった。
「じゃあ次に会えるのはお盆の次の週だね」
 そう言った糸川に、すぐに帰ってくるとは訂正できなかった。そう言えば、糸川に自分と会う時間を作らなければと思わせてしまうかもしれない。そんな余計な気は遣わせたくない。
 普段から仕事が忙しく、ほぼ毎日残業しているような人だ。自分にかかずらう時間があったら、たまにはゆっくり頭と体を休めてほしい。
 そう思うのも本心なのに、熱のこもったワンルームにひとりぽつんと戻ってくると、やたら寂しさが迫ってくる。
「会いたいなぁ……」
 独りごちる声に涙が絡んだ。
 部屋の棚に置かれた雪晃を手に取り、そっと霧を吹く。糸川には聞かせられない本音を漏らして、糸井は静かに泣いた。
 糸川を想うと泣けて仕方がないのだ。
 あと何回会えるんだろう。
 どれくらい一緒にいられるんだろう。
 好きなのに、終わりを覚悟しなければならないことは、糸井には身を切られるようにつらいことだった。


 長く感じられた盆休みが明け、さらに長く感じられた平日を過ごし、ようやく糸川に会える土曜となって、嬉しい反面、糸井は緊張していた。
 前回会った花火の夜、糸井は糸川を拒絶するという大失態を犯し、その夜は抱いてもらえなかった。弁解しようとしたのだけれど、糸川はなぜかごめんと謝って糸井の声を遮って、要するに言い訳など聞く気はないのだと悟って糸井は口を噤んだ。
 あの日のことは許されているのだろうか。糸川の中の蟠りは消えてくれているだろうか。
 不安な気持ちで電車を降り、改札を抜けると、見回した先でこちらを既に見つけていたらしい糸川とばっちり目が合った。
「あ、い、糸川さん」
 緊張したときの癖で前髪に触れるようにして目元を隠しながら、糸井は糸川に近づいた。
「髪切ったんだね」
 第一声に糸井の変化に気づいてくれた糸川の表情は穏やかで、糸井はほっとしたのを気取られないように俯いた。
「はい……だいぶ無精して伸びてたので」
「隠さなくていいじゃない、似合うよ。かわいい」
「かわ……。はあ、ありがとうございます」
 恥じらっていると思ったらしい糸川に正面から褒められて、糸井は顔を赤くした。かわいいなどと言われて、三十路目前の男が内心喜んでしまっているのが恥ずかしい。
 横に並んで部屋へと向かいながら、糸井は横目でこっそりと糸川の様子を窺った。
 糸井に対して怒っている様子も、呆れている様子も見受けられない。前回の非礼を、もう水に流してくれたのだろうか。そうだと良いのだけど。
「夕飯どうしようか」
 いつものように歩きながらその相談を振られて、糸井は少し迷って、持参した大きめの鞄を叩いて示した。
「あの、実はお盆に帰省してたときに、生そばいっぱい持たされたんです」
 少しの勇気を出して、糸井はそれを自分が作ると名乗りをあげた。
 そばくらいなら、手料理を振る舞うというほどの重さはなく、外食漬けから脱する第一歩になるのではないかと思ったのだ。ただ、それも糸川の嗜好に合わなければすぐに取り下げるつもりだった。
「よかったら一緒に食べようと思って少し持ってきたんですけど、糸川さんそば大丈夫でした?」
 こわごわと確認した糸井に、糸川は笑ってくれた。
「ほんと? そば好き」
 その返事に、盛大に胸を撫で下ろす。
 よかった。差し出た挙げ句に嫌いなものを食べさせるようなことにならなくて。
 その後も和気藹々と会話は弾み、糸井はうっかり、朝からの緊張を解いてしまっていた。
 きっと糸川は忘れてくれたんだ。大丈夫だ、もういつも通りだ。
 そう思ったのに。
 帰宅直後にいつもしてくれていたキスはなく、思わず期待に身構えた糸井を一瞥した後、糸川は素っ気なく視線を外してしまった。
 互いの帰省中の話をしているときも、盛り上がった甥っ子話に共感した勢いでごく自然に握り合った手を、不自然にほどかれた。
「……お腹、減らない?」
 はぐらかすにしてももう少しやりようがあるのではないかと思うほどの、唐突な話題の転換で、糸川は糸井から離れた。
 何か糸川の中に、糸井に対して隠したい感情があるらしい。いかに愚鈍な自分でも、それくらいはわかる。
(拒絶……ですよね)
 他意なく触れることすら、受け入れてもらえなくなったのだと知った。
 何も言えることはない。立場も弁えずに先に糸川を拒絶したのは自分の方だ。やらかしたあの大きなマイナス点は、まるで挽回などできていなかった。そういうことだ。
「……そば、茹でましょうか」
 傷ついた顔など見せられる立場ではないから、糸井は微笑んだ。その表情を見た糸川が少しほっとしたような様子だったから、選択は間違っていなかったと安心した。
 糸井の心臓はつぶれそうなほど痛んだけれど、それを糸川に転嫁するつもりはない。痛いのは自業自得で、彼のせいではないのだから。
 和やかに食事をし、片付けを終え、いつもの流れで部屋着を渡されて風呂へ促される。
 その後のことがわからなくて、シャワーを浴びながら糸井は途方に暮れてしまった。
 ただ触れ合うのも躊躇うような相手を、抱いてくれるだろうか。普通に考えると、抱いてもらえない気がする。でも、好意と性欲は別物だから、処理目的で使うくらいはしてくれるかもしれない。そうなったときに備えて、やはり身は清めておかなければ。
 自らの指で後孔の内側を洗いながら、溢れてくる惨めな涙が止められなかった。
(馬鹿みたいだ……)
 情けないことに、糸井は自分にできることがこれくらいしか思い浮かばない。長年の三島との繋がりも、体しかなかったから。
 せめてと、糸川が求めてくれることを祈る。
 けれど祈りは届かず、やはりその夜も糸川は糸井を抱いてはくれなかった。