俺が守谷岬と出会えた確率ってのは、まあ天文学的な数字の奇跡的なもんだと思うんだけど。
奇跡なんて信じない俺は、でもその偶然にすごく感謝してる。
今までの人生27年、その全部をゲイとして生きてきたわけではなかった。
昔は、というか小学生くらいの時だけど、まあ人並みに女の子の話題で盛り上がれていた。誰それが何組のショートカットの子が好きだとか、何組の窓側の子が俺に気があるらしいとか、冷やかしたり冷やかされたり。俺にとっても女の子は、恋愛的な関心を寄せる対象だった。
でも中学生の時、母親が男を作って家を出て行って。
待ってお母さん、と引きとめた手は無下に振り払われた。
最愛の人から拒絶された感触は忘れることができず、呆然とてのひらを見つめる俺に父は、女なんて信用できない、と呟いた。
ぽっかりとあいた心の空洞にその言葉は落ちて、我ながらなんと素直だったのだろうか、女は信用できないものだとインプットされてしまった。
その後男相手にドライな恋愛をするようになって、まあ女も可愛い生き物だとは思えるようになったが、恋愛対象にすることはできなかった。性別が女であるというだけで邪険にするほど子どもでもなくなったが、今後も女を好きと言えるほど寛容になれそうにはない。
大学時代は、後腐れのない相手と適当に付き合っていた。出会いの場への出入りもあったし、俺の顔の良さも手伝って、まあ入れ食いというかとっかえひっかえというか、あまり自慢にならないような付き合い方だ。
医学部で検査技師になるための勉強をしながら、途中で養護教諭になろうと軌道修正したりして、人より時間はかかったけれど大学を5年で卒業して緑翠高校に就職して。生徒相談なんて面倒なものも兼任しながら、でも俺はこの仕事が好きだと思っていた。
仕事が忙しくなるにつれ、出会いの場への足は遠のいた。しかし出入りのあった頃からの付き合いがなんとなく続く相手が、一人だけいた。
バイだった、悠という一つ年下の男。寂しがりで甘ったれで、わがまま。自由奔放なあいつを思いっきり甘やかしてやるのが、俺にとっても嬉しくて。つかず離れずの関係は、4年近く続いた。
でもそいつが去年の夏、女を孕ませて、結婚して。
そーゆーことだから、との軽い説明で、俺は呆気なく捨てられた。
俺との付き合いがありながら女と寝ていたこととか、男もOK女もOKという節操のなさとか、糾弾したいことは山ほどあったけど、そんなことを言えるような関係でもなかったのだろうかと諦めて、おめでとう、と腹のでかい妊婦との結婚式に祝いを持参した。
――くだらねぇ男だよ、我ながら。
それから半年、相手を見つける気にもなれず。
軽い人間不信の状態で、退屈な日々を送っていた時。
春は出会いの季節とは言うけれど、一片の期待もしていなかった俺の元へ、守谷岬が訪れた。
それは晴れた、風の強い日で。
窓辺のカーテンが揺れるに任せて、俺はうたた寝していた。
「あの…」
やわらかい、控えめな声に起こされて、ゆっくりと目を開ける。そこに、悠に少し面影の似た、やや童顔な男が立っていた。
一目見て、タイプだ、と思う。けれど自分の中に人間不信がまだ残っているのか、気軽に声をかける気にはなれずに不機嫌に見上げた。
その後のやりとりで、彼が隣室の心理相談員であること、萱島という養護教諭を女性だと思い込んでいたこと、迎合もしないが自分を過信もしない性格であることがわかり、一気に俺の興味は引かれた。
そうして興味を引かれることに、警告する内の声も確かにあった。相手はストレートで、本質的には女が好きで、悠の時の二の舞にならないとも限らない。そうなった時、傷つくのは自分だから。
でもその声を凌駕する気持ちがあった。
今まで一目惚れなんかしたことがなかったのに、その時俺ははっきりと、こいつが好きだと思ってしまった。
「1年以内に、絶対落としてやる」
そう宣言した自信には何の根拠もなかったが、そうなればいいとも思っていたし、そうしようとするだけの意気込みもあった。
ストレートの男を落とした経験はないけど、まあ後は俺の努力次第ってとこだろう。
それから俺は足繁く相談室に通い、まずは友人関係のようなスタンスで親しくなることから始めた。自分の身の回りにゲイなんか存在するはずがないと思っているような守谷の警戒を解くためには、回りくどい手管が必要らしい。
そうして守谷と親しくなっていくうちに、また少しずつ彼のことが分かっていく。
彼の素直なところ、頑固なところ、好きな食べ物、誕生日。何か一つ知るたび、彼への感情が深まっていくのを感じる。
これが恋ってやつなんだろうか、なんて、27にもなって考えてみたりする。
松野の一件では、思いがけず彼の生い立ちの一端を見た。そして落ち込みやすい、弱い側面も見せた。
まだこれから、俺は彼のことを知っていく。
そしてまた一つ知るたび、彼を愛しく思うのだろう。
弱さも、悲しみも、全てを包んで愛してやりたいと思う。
彼の全てを受け容れ、支えられる人間でありたい。
「ちょっ…もうっ、からかわないでください!」
俺の愛情表現を理解せず、むきになって拒絶する彼も可愛いと思ってしまう、俺は相当重症なんだろう。
その赤らんでいる顔を、脈ありと見てもいいのか?
守谷を前にすると、自分がまるで恋愛を知らない中学生に戻ったような気がする。こうしていいのだろうか、こう言っていいのだろうかと、守谷の反応を窺ってびくびくして、ドキドキしている自分。
ま、そんな俺はあいつには見せないけどな。
でも初めて感じる幼いときめきが、今は少し心地いい。
焦る必要はない、落とす前の1年は長い。まだ学校の仕事に戸惑いがちな彼をフォローして、少しずつでいい、信頼を得ていこう。
もしかしたら、振り返ってもらえることはないのかもしれないけど。
こんな風に甘い感情を持たせてくれた守谷には、感謝したいと思う。
いつかこう言いたい。
お前を好きになってよかったよ、と。
そしていつか、こう言ってもらいたい。
俺に愛されてよかったと。
<END>